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ポルトガル語「カピタン・モール」(総司令官)
日本航路の年次航海を指揮した職で、国王の任命によるとともに、莫大な利益を生む交易特許でもあった。1610年、船を敵に渡すまいとマードレ・デ・デウス号を爆沈させたアンドレ・ペソアは、この職の最も有名な──そして最も短命な──保持者である。
ポルトガルのアジア帝国。モザンビークからマカオに至る要塞・艦隊・商館の網であり、ゴアから統治された。日本はその採算のとれる最遠端に位置し、ゴア~マラッカ~マカオの航路で結ばれていた。
帝国の辺境の都市:ポルトガル領マカオの歴史 · レコンキスタから種子島へ:イベリア辺境の十字軍はいかにして日本の浜辺に至ったか
ポルトガル語で「商館」の意
要塞化された商館。アジアにおけるヨーロッパ商業の基本単位である。ポルトガル人は日本に真の商館を持たず長崎を通じて取引したが、平戸のオランダ商館(1609年)とイギリス商館(1613年)がこの形態を日本の地にもたらした。
1604年に設けられた生糸の割当仲間。大都市の特権商人からなる組合が、ポルトガル船の生糸を単一の交渉価格で一括購入する権限を持った。マカオ商人の価格決定力を打ち砕き、南蛮貿易に対する幕府の統制強化を象徴する制度である。
タールで黒く塗られたポルトガル船、とりわけマカオの大船を指した日本語。ポルトガル人追放の二世紀後、ペリー提督の艦隊に対して再び使われることになるが、言葉そのものは南蛮貿易のために生まれた。
「南の異人」を意味し、中国での用法を借りて、マカオやフィリピンを経て南から来航したポルトガル人・スペイン人を指した日本語の呼称。当初は蔑称だったが、やがて単なる呼び名として定着し、1543年から1639年に至るイベリアと日本の接触の時代全体の名となった。
「南蛮の人々」、すなわち日本に来たポルトガル・スペインの商人、船乗り、宣教師たち。黒衣の司祭、膨らんだ南蛮袴、高い船体は日本の絵師たちを魅了し、その姿は南蛮屏風に描き留められた。
「南蛮の船」、すなわち日本航路のポルトガル船を指し、その最大のものがマカオから毎年来航するカラック船であった。長崎への入港は、日本の一年における最大の商業行事だった。
ポルトガル語で「交易の船」の意
1557年から1639年までマカオと長崎を結んだ年次の大型カラック船で、当時世界最大級の船であった。中国産の絹と金を日本へ運び、銀を積んで帰り、その積荷はポルトガルのアジア帝国とイエズス会宣教の双方を支えた。日本では「黒船」と呼ばれた。
ポルトガル語「パンカダ」(一撃で)より
糸割符仲間がカラック船の生糸全量を、個別取引に先立ち一括・単一価格で買い上げる売買方式。ポルトガル側が「パンカダ(一括売り)」と呼んだこの方式を、日本側は統制の道具として運用した。
将軍の朱印状によって海外交易を認可された日本の商船。徳川家康のもとで制度化され、三十年にわたり日本を東南アジアで活動する交易国家たらしめたが、1630年代の鎖国令により日本人の海外渡航そのものが禁じられた。
オランダ語 Vereenigde Oostindische Compagnie の略
1602年に設立されたオランダ東インド会社。株式会社として、アジア全域でポルトガルを追撃したプロテスタントの競争相手である。布教を持ち込まずに商売に徹し、日本ではあらゆる競合より長く生き残って、1641年以降二世紀にわたり出島の独占権を握った。
東インド会社:VOCはいかにして大洋を征服し、一つの島を受け継いだか · 赤い獅子と朱印状、一六〇九年、オランダの平戸到着
ポルトガル語「パードレ」(神父)より
ポルトガル語「パードレ」の日本語形。カトリック司祭、とりわけイエズス会の神父を指す。1587年の秀吉の追放令(伴天連追放令)の表題に掲げられ、迫害の時代にはことさら醜い当て字で書かれた。
宣教師に二十日以内の国外退去を命じた1587年の秀吉の法令。博多の陣中から一夜にして発せられ、その後十年ほとんど施行されなかった。キリスト教と日本の支配権力が両立しえないことを国家として初めて宣言した文書である。
宣教団の高等教育機関。将来の司祭には哲学と神学を、探究心ある者にはヨーロッパの学問を教えた。印刷機を備えたコレジヨは、一時期、日本で最も国際的な学び舎であった。
イベリア型の信徒組織。信心会(コンフラリア)や、病院と貧民救済を担った長崎のミゼリコルディアがそれである。司祭が追放されたのち、潜伏教会を支えたのはこれら信徒の組織だった。
ラテン語・ポルトガル語「デウス」(神)より
宣教団が用いた「神」の訳語。ザビエルが当初用いた「大日」が、キリスト教を仏教の一派と思わせる致命的な誤訳と判明したのちに採用された。翻訳を断念して原語デウスに退いたことは、翻訳の限界について宣教団が学んだ最も苦い教訓である。
日本宣教のための公教要理。1591〜1600年頃、イエズス会の活版印刷機によりローマ字版と国字版が刊行された。日本最初のキリスト教が語った、ポルトガル語混じりの独特な語彙を定着させた書物である。
イエズス会の住院に寄宿した日本人の在俗伝道士。説教、通訳、雑務と、宣教の日常の働きの多くを担いながら、修道会には属さなかった。その曖昧で報われない立場は、宣教団内の政治の慢性的な火種であった。
踏ませるために鋳造・彫刻されたキリストや聖母の像。1620年代末に長崎で始まり、毎年の絵踏の儀式は、信徒を摘発する迫害の象徴的な道具となった。
徳川幕府のキリシタン迫害 1617–1640 ― 幕府はいかにして棄教者の製造を学んだか · 統べるために生まれて:徳川家光と支配の完成
ポルトガル語「イルマン」(兄弟)より
イエズス会の修道士(イルマン)。司祭に叙階される前の会員を指す。宣教団の日本人会員の多くがイルマンとして仕え、ジョアン・ロドリゲスも叙階まで長くこの身分にあった。
禁教後もひそかに信仰を守った「隠れた」キリシタンたち。江戸期の地下信仰を「潜伏キリシタン」、十九世紀に信仰が黙認されて後もなお独自の道を歩んだ共同体を「隠れキリシタン」と呼び分ける。1865年、長崎での信徒発見はヨーロッパを驚嘆させた。
閉ざされた扉の向こうで:日本はいかにして鎖国のなかで自らを再発明したか · 日本のキリシタン改宗者数、1549–1700年
ポルトガル語「クリスタン」(キリスト教徒)より
宣教時代の日本人キリスト教徒。禁教下では敵意を込めた当て字(切支丹など)が生まれ、今日では日本最初のキリスト教とその信徒を指す標準的な歴史用語として定着している。
圧力のもとで信仰を公式に棄てた「転んだ」キリシタン。多くは踏絵を踏むことで棄教した。最も悪名高い転びは司祭であり、宣教団の管区長その人であったクリストヴァン・フェレイラは、1633年、拷問の末に棄教した。
クリストヴァン・フェレイラ:日本の堕ちたイエズス会士 · 徳川幕府のキリシタン迫害 1617–1640 ― 幕府はいかにして棄教者の製造を学んだか
1633〜39年の一連の法令によって築かれ、1854年まで維持された、徳川幕府の対外接触制限政策。「鎖国」という言葉自体は、政策のはるか後、1801年になって作られた。
鎖国、日本はいかにして、なぜ門戸を閉ざしたのか · 閉ざされた扉の向こうで:日本はいかにして鎖国のなかで自らを再発明したか
ヴァリニャーノの改革により1580年から設けられた、日本人少年のためのイエズス会寄宿学校。日本の学問と並んでラテン語、音楽、絵画を教えた。天正遣欧少年使節の四人もセミナリヨの生徒である。
巡察師:アレッサンドロ・ヴァリニャーノと日本布教の再建 · 天正遣欧少年使節、ルネサンス期ヨーロッパを訪れた日本の若き貴人たち
幕府による宗門の取り調べ。毎年、各家の宗旨を調べて帳簿に記録し、1640年には専任の宗門改役が置かれた。寺請と絵踏とあわせて、日本のキリスト教を地下へ追い込む機構を成した。
徳川幕府のキリシタン迫害 1617–1640 ― 幕府はいかにして棄教者の製造を学んだか · 閉ざされた扉の向こうで:日本はいかにして鎖国のなかで自らを再発明したか
寺請制度。すべての家は、その構成員がキリシタンでないことを檀那寺に証明させられた。全人口を寺の帳簿に縛りつけ、仏教を反キリシタン監視の機構へと変えた制度である。
鎖国、日本はいかにして、なぜ門戸を閉ざしたのか · 徳川幕府のキリシタン迫害 1617–1640 ― 幕府はいかにして棄教者の製造を学んだか
ポルトガル語で「巡察師」の意
東インドのイエズス会宣教を総監督する巡察師。ゴアから長崎までのすべての上長に対する権限を持った。アレッサンドロ・ヴァリニャーノは三十年にわたりこの職にあり、日本宣教の作り直しにこれを用いた。
本来は「幕の府」、将軍の政庁を指す。本アーカイブでは主として江戸の徳川幕府を意味し、ポルトガル人の存在を規制し、制限し、ついに終わらせた国家機構である。
領国を治めた武家領主。その領地と軍勢と抗争が戦国の世紀を形づくった。九州の大名たちはポルトガル船の誘致を競い、大村・大友・有馬・高山ら、洗礼を受ける者が相次いだ。
天皇の朝廷における最高の文官職。農民の子である秀吉は1585年にこの職に就いた。将軍家の血統を持たずに日本を支配することを可能にした、法制上の擬制である。
長崎を治めた幕府の奉行職。日本の対外窓口の統治者として貿易を運営し、禁教を執行し、1640年のマカオ使節への判決を申し渡した。
「戦う国々の時代」。通例1467年から1568年までとされる分裂と内乱の世紀であり、ポルトガル人はそのただ中に来航した。鉄砲と交易品への渇望こそが、新来者を歓迎させたものである。
日本の武家の統治者。形式上は天皇の征夷大将軍だが、実質は国の主権者であった。徳川家康は1603年にこの職に就き、以後1867年までその家がこれを──そして南蛮貿易の命運を──握り続けた。
関白を退いた者の尊称。実際には1591年以後の豊臣秀吉の統治の称号であり、歴史が彼を記憶する名でもある。太閤は将軍職に就くことはなかった──その必要がなかったのである。
対外貿易を支えた職業通訳。ポルトガル時代の通訳ののち、長崎には世襲のオランダ通詞・唐通事の組織が続いた。「ツーズ(通事)」の異名をとったジョアン・ロドリゲスは、二人の将軍に仕えるほどの通訳であった。
ポルトガル語「パン・デ・カステラ」(カスティーリャのパン)より
ポルトガル人が九州にもたらした焼き菓子。四世紀をかけて長崎名物として土着化した。卵と砂糖をぜいたくに使うことから当初より贈答の品であり、今日までそうあり続けている。
南蛮人の来航を描いた大型の屏風絵。黒船、南蛮袴の司令官、黒衣と灰衣の司祭たちが画面を賑わす。狩野派を中心に九十点ほどが現存し、いまなおこの世紀の最も鮮やかな視覚記録である。
イベリアの好みとキリスト教の典礼のために作られた輸出漆器。黒漆に金蒔絵と螺鈿をほどこした櫃、書見台、聖餅箱などである。ヨーロッパの買い手のためにまとまった量が作られた、最初の日本美術であった。
この世紀が日本語に残した日常の言葉たち。パン(pão)、合羽(capa)、ボタン(botão)、かるた(carta)、煙草(tabaco)。船の来航が禁じられて久しいのちも言葉は残った──南蛮貿易の最も静かな遺産である。
ポルトガル語「テンポラス」(斎日)または「テンペロ」(調味)より(諸説あり)
衣をつけて揚げる料理。断食日に魚を揚げて食べたポルトガルの習慣に由来する。日本はその技法を取り入れ、原形をとどめぬまでに洗練させて、異国人の精進料理を国民的な食文化へと変えた。