セバスティアン王へのエチオピア使節――総主教、王子、そしてプレスター・ジョンの救出
舌を切り取られたひとりのポルトガル人医師が、いかにして弁舌によって総主教の座をせしめたか。
セバスティアン王へのエチオピア使節とは、みずからをエチオピア総主教と称するポルトガル人外科医ジョアン・ベルムデスが、1538年頃にジョアン三世の宮廷に赴き、ムスリムの攻勢にさらされたプレスター・ジョンのキリスト教帝国のために、ポルトガル軍を勝ち取った一件を指す。クリストヴァン・ダ・ガマ率いる四百名の銃兵からなるその軍勢は、1541年から1543年にかけてイマーム・アフマド・イブン・イブラーヒーム・アル=ガーズィーの軍と戦ってソロモン朝エチオピアを救い、ベルムデスはこの戦役を、1565年にリスボンで刊行され若きドン・セバスティアンに献じられた自賛の書に書き残した。

本稿の射程についての注記――この物語が繰り広げられるのはアフリカの角であって、日本の海ではありません。その主人公たちは、南蛮屏風を目にしたことすらないのです。本サイトの通常の守備範囲からは外れた話題です。しかしこれは同時に、ポルトガルの十字軍的野心をめぐる物語であり、エスタード・ダ・インディア(ポルトガル領インド)を生んだ宗教と地政学の融合をめぐる物語であり、その執念がのちに日本宣教を作り変えることになる一人の王をめぐる物語であり、そして何よりも、切り取られた舌、自称の総主教、山岳の戦いへと進軍する四百名の銃兵、そして1565年にリスボンで刊行されドン・セバスティアンに献じられた一冊の書物をめぐる物語でもあります。要するに、語らずにおくには惜しすぎる物語なのです。
1536年のある朝、ヴァチカンの城壁の奥に入り組んだ教皇庁の一室で、四十がらみの疲れ果てた一人のポルトガル人旅行者が、教皇パウルス三世の前に姿を現しました。彼はエチオピア高原から、カイロとエルサレムを経て陸路をたどってきたのです。トルコ人は旅の途上で彼を捕らえ、殴打し、そして彼自身ののちの言い分によれば、舌の一部を切り取り、残る生涯つきまとうことになる、こもった不明瞭な話し方を彼に残したのでした。彼は、アビシニアのキリスト教皇帝の名において語る者だと称しました。エチオピア教会の長によって、その臨終の床で次期総主教に叙されたのだと称しました。そして皇帝からの指令を携えていると称したのです――すなわち、エチオピア教会をローマに服させること、ソロモン家とアヴィス家との王家の婚姻を取りまとめること、ポルトガル軍を請うこと、そして――これがもっとも人の目を引く一項でした――一団の熟練した石工を徴発し、丘を掘り抜いてナイル川の流れを付け替え、たった一つの土木工事によってイスラームのエジプトを破滅させること、でした。
彼の名はジョアン・ベルムデスといいました。外科医として修業を積んだ人物です。ヴァチカンには、その叙任の記録は一切残されていませんでした。そして彼の前には、その時点で、ポルトガル外交史上もっともありそうにない経歴の一つが待ちかまえていたのです。
崖淵の帝国
キリスト教のエチオピア――その支配王朝がソロモンとシバの女王の子にまで血統をさかのぼるソロモン朝の帝国は、1520年代の末以来、死に瀕していました。皇帝レブナ・デンゲル――ポルトガル人は彼をオナディンゲルと呼び、また旧約聖書ばりの美辞を弄する彼らの流儀で、ときに「ダビデ王」とも呼びました――は、存亡にかかわる攻撃を受ける王国を治めていました。攻め手は、ソマリ海岸のムスリム勢力たるアダル・スルタン国の指導者、イマーム・アフマド・イブン・イブラーヒーム・アル=ガーズィーでした。ポルトガル人は彼をグラニュ、すなわち「左利き」と呼び、現代の歴史家は概してアムハラ語形のグラニュを採っています。アフマドは、聡明さと、執念と、狂信とを、ほぼ等分に兼ね備えた男でした。1529年にキリスト教徒の高原に対しジハードを宣し、続く十年のあいだに、自らは神の業をなしているのだと信じる者の容赦なき手際で、ソロモン朝の帝国を解体していったのです。
決め手となったのは火器でした。アフマドの軍勢は、オスマン・トルコの火縄銃兵によって増強されていました。近代的な武器を備えた職業軍人であり、1517年にマムルーク朝エジプトを、1538年にアデンを呑み込んだ、あのオスマンの大膨張から間もない者たちです。伝統的な槍と剣と弓で装った エチオピア軍は、これに太刀打ちできませんでした。守備隊は陥落しました。修道院は略奪されました。写本は――なかには千年を経たものもありましたが――焼かれました。人々は剣を突きつけられて改宗を強いられました。1530年代の半ばには、レブナ・デンゲルはもはや、みるみる減っていく護衛とともに山中を移動する一人の逃亡者へと成り下がり、自らの帝国が周囲で崩れ去っていくのを見つめるほかありませんでした。
ベルムデスが、あの途方もない使命を授かったと主張したのは、まさにこの崩壊のただ中においてでした。
この時点で、彼は無名の人物というわけではありませんでした。1515年には現役の外科医としてポルトガル領インドへ渡っていました。1520年には、マヌエル一世がエチオピア宮廷へ遣わしたドン・ロドリゴ・デ・リマの正式な使節団に加わっていました――のちにフランシスコ・アルヴァレスの『Verdadeira Informação das Terras do Preste João das Índias(インディアスのプレスター・ジョンの地の真実の報告)』を生むことになる、あの使節団です。これは、印刷されて流布した最初の詳細なエチオピア報告でした。1526年にドン・ロドリゴの使節団が去るとき、幾人かのポルトガル人があとに残りました。ベルムデスもその一人でした。続く九年のあいだ、彼は外科医が役に立ちうるあらゆる立場で皇帝に仕えたのです。
そして1535年、ベルムデス自身の言い分によれば、エチオピア教会の長であるアブナ・マルコス――その任命は、伝統的にアレクサンドリアのコプト総主教から下されました――が、死の床に就いていました。ベルムデスの記すところでは、レブナ・デンゲルはこの瀕死の人に、自分、すなわちベルムデスを後継者として叙してほしいと懇願しました。アブナは、これに応じたとされます。「まず私をあらゆる聖なる位階に叙し」、続いて彼を総主教位へと引き上げたというのです。皇帝はそこで、西へ旅するよう彼に命じました――ローマへは、エチオピア教会を教皇の権威に服させるため、リスボンへは、軍勢を乞い願うために。
これがベルムデスの語った筋書きです。それはまず間違いなく、実際に起きたことではありません。のちの歴史家たちは、彼の叙任なるものをめぐる事情を「不明で疑わしい」と評しました――学者が「もっともらしい体裁をまとった純然たる捏造」を意味するときに手を伸ばす類いの言い回しです。ヴァチカンの文書庫には、いかなる教皇の裁可の痕跡も残されていません。1538年の教皇文書は、ケサルという名の別人を、アレクサンドリアの総主教として認めています。教皇庁がついに1555年にアビシニアのカトリック総主教を任じたとき、選ばれたのはイエズス会士ジョアン・ヌネス・バレトであって、ベルムデスへの言及は一切ありませんでした。存命中、王ジョアン三世は彼を、称号を「僭称した」「ただの一司祭」として公に否認することになりますし、ガラウデウォスも、彼を「フランク人の総主教」以上の何者としても認めようとはしなかったのです。
しかし1536年、切り取られた舌と法外な要求とをたずさえて教皇パウルス三世の前に立ったとき、ベルムデスはまだ知りませんでした――歴史がこののち四世紀をかけて、自分の主張を掘り崩していくことになろうとは。彼は、瀕死の帝国の最後の望みを鞍袋に入れて運んでいるのだと言い張りました。そして、相手を説き伏せてしまったのです。
世界の裏側からの指令
ベルムデスがたずさえてきた要求は、十六世紀ポルトガル外交の基準に照らしてさえ、オペラじみたものでした。彼が求めるべきは、両王家の子女どうしの婚姻によって固められた、二つの王冠のあいだの永久の同盟。「ゼイラの王」――すなわちイマーム・アフマド――を打ち破るための、訓練されたポルトガル兵の一軍。そして、丘を掘り抜いてナイル川の流れを付け替え、イスラームのエジプトを破滅させるべき、熟練の石工の派遣でした。
現代人の耳には、これは陽に当たりすぎた男のたわ言のように響きます。十六世紀ポルトガル人の耳には、アルブケルケのように響いたのです。ポルトガル領エスタード・ダ・インディアの立案者アフォンソ・デ・アルブケルケは、その一世代前に、エチオピアの人的資源とポルトガルの制海権とを組み合わせてメッカを破壊し、メディナにある預言者の遺体を身代金で取り戻し、そして――その最も名高い妄想として――青ナイルを付け替えてエジプトの農業を破滅させる、という策を公然と抱いていました。この理屈は、エンリケ航海王子以来のポルトガルの拡張を突き動かしてきた大戦略と合致していました。すなわち、イスラーム世界を側面から迂回し、その背後から攻め、キリスト教国の海軍力とプレスター・ジョンの王国の膨大な人的資源とを結びつけ、そして計画の果てに、エルサレムを奪還する、という構想です。
プレスター・ジョンという枠組みは重要でした。1487年のペロ・ダ・コヴィリャンの情報収集の使命以来、ポルトガル人はエチオピア皇帝を、中世の伝説に登場する、久しく探し求められてきた司祭にして王たる者と同一視していました。これは歴史的にはこじつけでしたが、政治的には実入りのよいこじつけでした。もしレブナ・デンゲルがプレスター・ジョンであるならば、彼との同盟は外交上の便宜などではなく、十三世紀以来ポルトガルの宮廷が論じてきた預言の成就ということになります。ベルムデスは、自分の聴衆をわきまえていました。彼の指令はささやかな援助を求めるものではなく、アルブケルケばりの壮大な事業を求めるものだったのです。そして、その枠組みが既存のポルトガルの戦略思想にあまりに精確に適合していたがために、それは真剣に受けとめられたのでした。
彼はローマからポルトガル宮廷へと向かい、1537年か1538年にエヴォラに着きました。ジョアン三世と直に会いました。彼の教会にまつわる自称をリスボンがどう受けとったにせよ、王は肝心の一点については説き伏せられました――ポルトガルの軍事遠征がエチオピアへ赴く、という点です。1539年、ベルムデスはポルトガル領インドへ向けて出帆しました。1541年には、副王ドン・エステヴァン・ダ・ガマ――1497年の航海によってこの企て全体を動かしはじめたヴァスコ・ダ・ガマの息子です――の大紅海艦隊が北のマッサワへ向かうのに、彼も加わりました。医師にして総主教たる男は、一軍の先頭に立って、故郷へ帰りつつあったのです。

四百の兵と一人の皇太后
1541年にマッサワに上陸した遠征軍は、ポルトガルのアジア事業の基準からすれば、とりわけ大きな部隊ではありませんでした。しかし、十六世紀の東アフリカの戦争にとっては、並外れてよく装備されていました。その中核をなしたのは四百名のポルトガル兵で、その圧倒的多数は火縄式マスケット銃を備えた 火縄銃兵でした。彼らとともに、百三十名の軍事奴隷、およそ七十名の熟練の機械工と職人、そして石弾と鉄弾を撃ちだせる野戦砲を操る十名の砲手が進軍しました。二名の司祭がこの部隊に随行し、あわせてベルムデスも――六年にわたる働きかけの末に、大陸を越えてまで求めてきた軍勢を、ついに手に入れて――同行していました。
陸上遠征の指揮は、1541年7月9日、副王の二十五歳の弟ドン・クリストヴァン・ダ・ガマに委ねられました。容姿に恵まれ、敬虔で、無謀といえるほどに勇敢であり、帝国でもっとも名高い武門の一つの出でした。彼が生きてエチオピアを去ることはありませんでした。
遠征軍はマッサワで、皇太后サブラ・ワンゲル――レブナ・デンゲルは前年に没しており、若き皇帝ガラウデウォスはなお別の地で権力を固めつつありました――と、そしてバハル・ナガシュとして知られる海岸地方の総督とに迎えられました。総督は、ポルトガルの砲を高原まで引き上げるために、騾馬と牛と駱駝を提供しました。続いて起こったのは、十六世紀でもっとも大胆でありながら、もっとも記憶に残されなかった軍事行動の一つでした。
デバルワで雨季をやり過ごしたのち、ダ・ガマは南へ進軍し、イマーム・アフマドの支配する領域へと入りました。1542年2月2日、その部隊はバサネテ――エチオピアではアムバ・サネトと呼ばれる――として知られる険しい丘上の要塞を強襲し、正面攻撃でこれを攻略しました。千五百名からなるムスリムの守備隊は、ことごとく剣にかけられました。ポルトガル側の損害は、戦死八名と負傷四十余名でした。土地のモスクは教会に改められ、勝利の聖母に献じられました。
さらに南へ進み、ダ・ガマはジャルテ――アムハラ語ではワジャラト――の平原に陣を張りました。1542年の枝の主日の前の土曜日、イマーム・アフマド自らが、歩兵一万五千、騎兵千五百、そしてトルコの火縄銃兵二百と見積もられる軍勢をもって攻めかかりました。兵力の懸隔は奇怪なほどでした。それは何の意味も持ちませんでした。ポルトガルの火力が攻め手を壊滅させたのです。イマームの馬は、その身の下で撃ち殺されました。イマーム自身も、火縄銃の弾丸で脚を撃たれました。四名の隊長が戦死しました。十二日後の1542年4月16日、アフマドは、副将ガラド・オマルの率いる歩兵三千と騎兵五百に増強されて、ふたたび来襲しました。ポルトガル側はまたも勝ちました。オマルはこの戦いで戦死しました。ジャルテでの二度の戦いを通じて、ポルトガル側の損害は戦死三十名、重傷十四名にのぼりました――後者のなかには、遠征の年代記作者ミゲル・デ・カスタニョーゾがいました。その目撃者としての記述は、のちに戦役全体についての最重要の史料となります。
わずか四か月のうちに、四百の兵をもって、ドン・クリストヴァン・ダ・ガマは、一つの帝国を滅ぼしてきた戦争の作戦上の勢いを打ち砕いたのでした。
ウォフラ――破局
イマーム・アフマドは、みずからの敗北から学ぶ男でした。騎兵と剣ではポルトガルの火器に立ち向かえぬと悟った彼は、退却し、書状をしたため、財布の紐をゆるめました。彼が買い入れたのは、ゼビドのオスマン朝パシャの手勢――経験豊かなトルコのマスケット銃兵千名と、より重い火砲の一群でした。1542年8月、ポルトガル勢が、ザブル山中のウォフラ(オフラ)付近の、のちの歴史家が防御不能と評することになる位置に冬営していたところへ、イマームは舞い戻ってきたのです。
戦いは1542年8月28日か29日に始まりました。いまや病と分遣とによって約三百五十名の実働兵にまで減っていたポルトガル勢は、ほとんど最初の斉射の時点で圧倒されました。ダ・ガマは、その家名が求める無謀さをもって、最前列で戦いました。脚を撃たれました。二発目の弾丸が右腕を砕きました。午後も遅くなるころ、ポルトガルの戦列は崩れました。およそ二百名の兵が戦闘で命を落としました。さらに四十名は、自軍の火薬庫が爆発したときに吹き飛ばされました――いかにも十六世紀らしい死に方です。日暮れとともに、ダ・ガマは生き残った十四名の同志とともに、茂みの中へ退きました。彼らは見つけ出され、捕らえられました。
続いて起こったのは、計算された辱めでした。ムスリムの陣営への道すがら、捕縛者たちは彼の髭を一本ずつ引き抜き、殴りつけ、その目に唾を吐きかけました。アフマドの前に引き出された彼は、討たれた二百名の仲間の首が、目の前で刎ねられていくのを見せつけられました。衣を剥がれ、縛られ、鞭打たれました。陣営の奴隷たちは、履物で彼の顔を打ちました。イマーム・アフマドはそのうえで、ダ・ガマの髭を灯芯のようによじり、蝋を塗って火をつけよと、みずから命じました。眉と睫毛は金属の鋏で毟り取られました。そのすべての間、記録を残したあらゆる年代記作者によれば、若き指揮官は自らの罪を赦したまえと神に祈っていました。ついにアフマドは、自分の剣で彼の首を刎ねました。ポルトガルとエチオピアの言い伝えは、のちにこの場面を、しかるべき数々の奇蹟で飾り立てました――首の落ちた場所からは癒しの泉が湧き出し、アビシニアのある修道院の大樹は、殉教の日に枯れた、というのです。
勝利を可能にしたトルコ人傭兵たちは、激怒しました。彼らはポルトガル領インド副王の弟という、この上ない外交的価値をもつ捕虜を捕らえていたのです。コンスタンティノープルのスルタンに引き渡せば、一財産を手にできたはずの人質でした。アフマドは、宗教的な満足のためにその男を殺してしまいました。トルコ人はダ・ガマの刎ねられた首を回収してゼビドへ持ち帰り、ほどなくエチオピアを去りました。このことが、のちに大きな意味を持つことになります。
ワイナ・ダガ――清算
ウォフラののち、生き残ったポルトガル勢はばらばらに分かれました。およそ百二十名が、皇太后サブラ・ワンゲルとともに、いわゆる「ユダヤ人の丘」へ退きました。別の五十名は、マヌエル・ダ・クーニャに率いられて、北のデバルワへと落ち延びました。1542年から43年にかけての冬のあいだに、散り散りになった残兵は、皇帝ガラウデウォス――いまや自らの権利によって統治するレブナ・デンゲルの息子です――の軍勢とふたたび合流し、最後の一戦に備えました。
1543年2月21日か22日、エチオピア・ポルトガル連合軍は、タナ湖の岸辺にほど近いワイナ・ダガ(オイナダガ)で、イマーム・アフマドの軍勢とまみえました。生き残ったポルトガル人――おそらく百七十名ほどは、この時点ではもはや、より大きな戦略の構図には関心を失っていました。ダ・ガマを殺した当の男たち、すなわちイマーム自身と、ウォフラののちも彼のもとに残った二百名のトルコ人マスケット銃兵とを殺すこと以外の、いっさいに関心を失っていたのです。
戦いのただ中で、ジョアン・ガレゴという名のポルトガルの火縄銃兵――年代記に「ガリシア人ジョアン」として記憶される、ポルトガルとカスティーリャの境のガリシアの出身です――が、敵の戦列を力ずくで押し分け、銃を構え、イマーム・アフマドの胸をまともに撃ち抜きました。ガレゴはただちに斬り倒されました。その一撃は致命傷でした。のちにアビシニアの一兵士が、栄誉を我がものにしようと、死んだイマームの首を切り落とし、エチオピアの年代記は、その殺害をエチオピア人の武功として律義に記録しました。しかしポルトガル人は、抜け目なく気を配っていました――斬首の前に、彼らのうちの一人が、アフマドの耳を切り取っておくことを思いついていたのです。何が起きたのかを再構成する段になると、その耳が示され、遺体が組み直され、そして――いわば事務手続きのように――致命の一撃を放ったのはフランク人であったことが証し立てられたのでした。
アフマドの死とともに、その軍は雲散霧消しました。エチオピア・ポルトガル側の勝利は、ポルトガルに四名の戦死者という代償を強いたにすぎません。長い戦争は、事実上終わったのです。キリスト教のエチオピアは生き延びました――みずからの軍事力によってではなく(それは戦いの当初に打ち砕かれていました)、切り取られた舌をもつ一人のポルトガル人医師が、アジアを歩いて横断し、エヴォラの一人の王に、プレスター・ジョンは救うに値すると説き伏せたがゆえに、です。

都合の悪い総主教
ベルムデスにとって、その後は破局でした。彼は、ローマと正式に合一した感謝に満ちたエチオピア教会に、みずからをそのラテン総主教として君臨することを見込んでいました。ところが彼が出くわしたのは、皇帝ガラウデウォスでした――神学に通じ、政治に長け、その資格がよく見積もっても怪しげな一外国人に、自国の教会を服させる気などまるでない人物です。ガラウデウォスは彼を、フランク人のアブナ――高原に定住したポルトガル兵の霊的指導者としてのみ認め、エチオピア正教会そのものに対する権限はいっさい与えませんでした。王ジョアン三世は、もっと露骨でした。1546年、リスボンはベルムデスを書面で正式に否認し、聖座の権限もないままに総主教の称号を「僭称した」「ただの一司祭」であると宣言したのです。
ベルムデスはなお十年ほど踏みとどまり、言い張り、働きかけ、もはや返事を寄こさなくなった相手に書状を送りつづけました。1555年、教皇はイエズス会士ジョアン・ヌネス・バレトを、アビシニア最初のカトリック総主教に任じました。ベルムデスに相談はありませんでした。1556年、彼はエチオピアを去りました。1558年か1559年にリスボンへ戻り、無名のうちに暮らしました――おおかた彼のことを忘れてしまった都で、うちひしがれた一人の老人として。
彼は、そのまま生涯を終えたかもしれません。ところが1564年か1565年の初め、ミゲル・デ・カスタニョーゾが、みずからのエチオピア遠征の記録を刊行しました。カスタニョーゾの書物は、正確で、生き生きとして、広く読まれ、そして――ベルムデスの側から見れば――壊滅的でした。彼をほとんど目に見えぬ存在にしてしまったからです。カスタニョーゾの関心はドン・クリストヴァン・ダ・ガマにあり、その最期のときを、同じ戦役で血を流した者の権威をもって描きました。ベルムデスは、カスタニョーゾの語りのなかでは、傍役にすぎませんでした。それは、ベルムデスが自分の人生をふり返るときの姿ではありませんでした。そこで彼は、自分自身の書物を著したのです。
少年王のための書物
『Breve Relação da Embaixada que o Patriarcha D. João Bermudez trouxe do Emperador da Ethiopia(総主教ドン・ジョアン・ベルムデスがエチオピア皇帝より携えきたった使節についての簡略な報告)』は、1565年にリスボンでフランシスコ・コレアによって印刷されました。長くはありません。冷静でもありません。それは、みずからを正当化する回想録がつねにそうであるように、その著者が実人生におけるよりも大きく、より中心的に描かれた文書なのです。
そしてベルムデスは、それをドン・セバスティアンに献じました。この献呈の相手の選び方は、検めるに値します。1565年のセバスティアンは十一歳で、三歳のときから王座にあり、その宮廷は摂政会議――とりわけ傅役ルイス・ゴンサルヴェス・ダ・カマラをはじめとするイエズス会士が、並外れた影響力をふるう会議に牛耳られていました。少年の人となりは、すでに輪郭を現していました。敬虔で、厳格で、十字軍に取り憑かれ、北アフリカに魅入られ、妥協を疑ってかかる。彼はまさに、キリスト教帝国を救うためにムスリムのイマームと戦う四百名のポルトガル兵の物語に胸を躍らせる、その種の若き君主でした。
ベルムデスは、それを心得ていました。彼の書物の冒頭は、並外れて計算された政治的文章の一節です。彼は少年に直接、こう語りかけます。
いとも高くいとも力ある王よ、御身はかつて私に、王たる御身の祖父君が……私に託された……あの隊長と兵士たちの身に起きたことの真実を知りたいと仰せられました。それは、この件についてある者たちが書き記した数々の誤りを正すためでございます。彼らは隊長の名すら取り違え、その弟君ドン・クリストヴァンであったものを、ドン・パウロと呼んでおります。またある者たちは、まことには起こりもせず、みずから見てもいない事どもを書き、語っております。これに対し、すべてを見た私が、この小さき書物のうちに、起きたことをやがて語り申し上げましょう。
この一節では、三つのことが同時に起こっています。ベルムデスはカスタニョーゾを正しており、競合する年代記作者たちを、クリストヴァン・ダ・ガマをその弟パウロと取り違えるという、基本的な事実誤認をおかした者として、それとなく責めています。彼は、目撃者としての自分の権威を打ち立てつつあります。そして彼は、物語全体を、ポルトガルの十字軍士の一世代から次の世代への贈り物として――十一歳のセバスティアンが、祖父の灯した松明を受け継ぐよう招かれる、その受け渡しとして枠づけているのです。
それは、少なくとも部分的には功を奏しました。ベルムデスは1570年に、総主教位への主張をなお墓碑に刻んだまま世を去りました。ローマを説き伏せたことはなく、ガラウデウォスを説き伏せたこともなく、ジョアン三世を説き伏せたこともありませんでしたが、彼は最後に、自分自身だけは説き伏せていたのです。
セバスティアンは――ほぼ間違いなくこの書物を読んだか、読み聞かせてもらったのでしょう――その教訓を吸収しました。ベルムデスの死から十三年のうち、1578年8月4日、彼はポルトガル軍を率いてモロッコへと乗り込み、三十六年前にエチオピア遠征が枠づけられたのとほとんど寸分違わぬ言葉で枠づけられた十字軍に打って出ます。キリスト教のポルトガル対ムスリムの北アフリカ、助けを求めてきた包囲されたイスラームの王子の救出、海を越えての聖戦の延長、というわけです。アルカセル・キビールで、彼は八千の兵とともに砂漠の砂の上に果てることになり、アヴィス王朝は彼とともに滅びるのです。
ベルムデスが彼に献じた物語は、ある意味で、彼の破滅の鋳型でした。四百名のポルトガルのマスケット銃兵は、神が味方するならば、広大なムスリムの軍を打ち破りうる――暗黙の教訓は、そう説いていました。若き王が吸収しそこねたのは――ベルムデスがそこに立ち止まらなかったがゆえに――その四百名のうちどれほどが道中で命を落としたか、勝利のどれほどが、アビシニアの帝国軍と、一人のガリシア人火縄銃兵と、奇怪なほどの幸運の連続とに拠っていたか、ということでした。彼はこの書物から、奇蹟を汲み取り、死亡率のほうは汲み取らなかったのです。
エチオピアに残されたもの
その間、タナ湖をめぐる高原では、ワイナ・ダガを生き延びたポルトガル人たちが、ひっそりとエチオピア人になっていました。
リスボンが彼らを引き揚げさせることは、ついにありませんでした。ポルトガル王室には、アビシニア高原に取り残された一大隊を本国へ送還するだけの紅海の兵站が――そして正直なところ、その関心が欠けていたのです。1541年にマッサワに上陸した四百名のうち、1543年になお生きていたのは、おそらく百七十名ほどでした。カスタニョーゾをはじめ、たまたまの船便をつかまえてインドへ戻った一握りを除けば、大多数はとどまりました。ガラウデウォスは彼らに領地を与えました。彼らはエチオピアの女性と結婚しました。二言語を話す子どもたちを育てました。続く五十年のあいだに、彼らは一個の独自な混血ポルトガル・エチオピア共同体へとまとまり、ソロモン朝の玉座を守る精鋭の軍事的親衛隊として仕えました。十六世紀の末には、その子孫は千人ほどを数えました。家ではアムハラ語を、ミサではポルトガル語を話したのです。
彼らはまた、やがて、ある宗教的な大惨事の種籾ともなりました。1550年代、王ジョアン三世とイグナチオ・デ・ロヨラは、アンドレ・デ・オヴィエド司教を皮切りに、組織立ったイエズス会の宣教団をエチオピアへ派遣しました。ひとつには、ベルムデスというきまり悪い存在への対応として、ひとつには、ベルムデスが偽って代表すると称していた、エチオピア教会とローマ教会との正式な合一を迫るためです。オヴィエドは皇帝を改宗させることができず、孤立のうちに生涯を終えました。のちのイエズス会士たち――なかんずく、聡明で忍耐強いペドロ・パイスは、より成功しました。十七世紀の初め、パイスは皇帝スセニョスをローマ・カトリックへ改宗させ、短いあいだ、エチオピア教会がまことにローマと合一するかに見えたのです。
パイスの後継者である、頑迷で機転のきかない総主教アフォンソ・メンデスは、みずからは建築をしていると思い込みながら解体作業をしている男の徹底ぶりで、その成果を破壊しました。1625年に着任したメンデスは、あらゆるエチオピアの典礼の抜本的なラテン化を要求しました。そこから生じた反乱は、帝国を引き裂きました。1632年、スセニョスは息子ファシラデスに譲位し、ファシラデスは伝統的なエチオピア正教テワヘド教会を復興させ、イエズス会士を追放し、ひそかに残ろうとした者を絞首刑に処し、そしてポルトガル人を永久に締め出すべく、オスマン・トルコとひそかな了解を取り結びました。エチオピアは国境を閉ざしました。それは一世紀余りにわたって、閉ざされたままとなるのです。
参考文献
ベルムデス, ジョアン. Breve Relação da Embaixada que o Patriarcha D. João Bermudez trouxe do Emperador da Ethiopia. リスボン:Francisco Correa, 1565年。現代英語訳は The Portuguese Expedition to Abyssinia in 1541–1543 as Narrated by Castanhoso and Bermudez, R. S. ホワイトウェイ訳・編, Hakluyt Society, 1902年に所収。私意に満ちてはいるが不可欠の当事者の証言であり、ドン・セバスティアンへの献辞こそ、この挿話が通称の由来とする文書である。
カスタニョーゾ, ミゲル・デ. Dos feitos de D. Christovam da Gama em Ethiopia. 1544年頃執筆、1564年リスボン初版。現代の校訂版と翻訳は広く入手可能。軍事行動についての目撃者の年代記であり、ベルムデスの自己宣伝に対する決定的な修正である。
アルヴァレス, フランシスコ. Verdadeira Informação das Terras do Preste João das Índias. リスボン, 1540年。現代校訂版:The Prester John of the Indies, C. F. ベッキンガム、G. W. B. ハンティングフォード訳, 全2巻, Hakluyt Society, 1961年。エチオピアについての礎となるヨーロッパの報告であり、ベルムデスも加わった1520年のドン・ロドリゴ・デ・リマ使節団から生まれたもの。以後のあらゆる出来事にとって不可欠の背景である。
ホワイトウェイ, R. S. The Portuguese Expedition to Abyssinia in 1541–1543. Hakluyt Society, 1902年。カスタニョーゾとベルムデスを一つにまとめた古典的な英語版であり、この挿話をめぐる現代の校訂的・学術的な枠組みを確立した詳細な史的序論を備える。
パンクハースト, リチャード. The Ethiopians: A History. Blackwell, 2001年。エチオピア側について――レブナ・デンゲルの崩壊、ガラウデウォスの治世、混血ポルトガル・エチオピア入植者共同体、そして戦役の長期的な宗教的帰結を扱う。
クラミー, ドナルド. Land and Society in the Christian Kingdom of Ethiopia: From the Thirteenth to the Twentieth Century. University of Illinois Press, 2000年。1543年以後にガラウデウォスがソロモン朝の帝国を再建した政治的・領域的な文脈にとって不可欠。
シルヴァーバーグ, ロバート. The Realm of Prester John. Doubleday, 1972年。中世の伝説がいかに変遷し、ついにはエチオピアへ移し替えられたかについての定番の研究であり、ポルトガルの介入が意味をなす神学的な枠組みを提供する。
スブラフマニヤム, サンジャイ. The Portuguese Empire in Asia, 1500–1700: A Political and Economic History. Longman, 1993年。エチオピアへの介入を、インド副王たちの、より広い紅海・インド洋をめぐる戦略思想のなかに位置づけるうえで貴重。
ボクサー, チャールズ・R. The Portuguese Seaborne Empire, 1415–1825. Hutchinson, 1969年。ポルトガルの海外事業についての、一巻にまとめられた不可欠の概観。アルブケルケ流の戦略的伝統のなかでのエチオピア遠征を、簡潔ながら権威をもって扱う。
ディズニー, A. R. A History of Portugal and the Portuguese Empire, Volume 2: The Portuguese Empire. Cambridge University Press, 2009年。エチオピア使節と、ポルトガルの政治的想像力のなかでのその長い後世とを見事に描く現代の総合的叙述。
コーエン, レオナルド. The Missionary Strategies of the Jesuits in Ethiopia, 1555–1632. Harrassowitz Verlag, 2009年。ベルムデスに続くイエズス会宣教についての現代の決定版研究であり、オヴィエドの失敗、パイスの成功、メンデスの破局、ファシラデスによる追放を扱う。
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Nanban.pt「セバスティアン王へのエチオピア使節――総主教、王子、そしてプレスター・ジョンの救出」2026年7月22日更新。https://nanban.pt/ja/articles/ethiopian-embassy-to-king-sebastian/
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