本頁が扱うのは、ジェームズ・クラヴェルの1975年の小説と、2024年に公開されたFXのドラマ版シーズン1である。シーズン2はクラヴェルの原作をもたない独自の物語であり、本頁を書いた2026年9月の時点でなお制作中であって、その筋書きについてはここに何も記していない。
実話である。しかも、どこがどう実話なのかを、この作品については珍しいほど正確に言うことができる。クラヴェルは物語の舞台を1600年の関ヶ原の戦いに至る数か月に置き、主要な登場人物をその年に実際にその地位にあった男女から取り、そのほとんどに別の名を与えた。年代を圧縮し、複数の人物を一人にまとめ、必要なものを創作するためである。枠組みは史実であり、その内側の筋書きは小説である。
『SHOGUN 将軍』のどこが正しいのかが論じられるとき、いつも三つのものが混同される。本頁はそれらを分けて扱う。すなわち、史実――日本とヨーロッパに残る記録が示すもの――と、クラヴェルの1975年の小説と、FXのドラマ版である。ドラマ版は小説を翻案したうえで大きく改変しており、史実の側へ引き戻すこともあれば、いっそう遠ざかることもある。
結末に触れることについて。本頁は物語の帰結を避けて通れない。何が創作なのかという問いは、その大半が結末についての問いだからである。以下の人物対照表は結末に触れないが、それより後の各節は触れている。
クラヴェルはほぼ全員の名を変えた。以下がその対照表であり、各人物を詳しく扱う記事を併せて示す。モデルとなる人物がいない場合は、その旨を記した。日本語の表記はドラマ版『SHOGUN 将軍』と小説の邦訳に従い、両者で異なる場合は括弧内に併記する。
| 『SHOGUN 将軍』では | モデルとなった実在の人物 | 史実を読む |
|---|---|---|
| 吉井虎永(小説の邦訳では虎長) | 徳川家康。関ヶ原の勝者、幕府の創始者 | 忍耐の覇者 |
| 石堂和成 | 石田三成。豊臣家の奉行の一人、西軍の組織者 | 関ヶ原、1600年 |
| 太閤・中村 | 豊臣秀吉。百姓の生まれの天下人、1598年にすでに没している。中村は生まれ在所の村の名 | 猿が神となるとき |
| 八重千代 | 豊臣秀頼。幼い世継ぎ | 大坂の陣 |
| 落葉の方 | 淀殿。淀君とも呼ばれる、秀頼の母 | 大坂の陣 |
| ゴロダ(ドラマ版では黒田) | 織田信長。最初の統一者、1582年に本能寺で討たれた | うつけ殿から第六天魔王へ |
| 戸田鞠子 | 細川ガラシャ。明智玉として生まれた、信長を討った武将の娘 | 細川ガラシャ |
| 戸田文太郎 | 細川忠興。その夫、関ヶ原では家康方として戦った | 細川ガラシャ |
| 戸田広松 | 細川藤孝。忠興の父、武将にして当代随一の歌人 | 細川ガラシャ |
| スダラ | 徳川秀忠。世継ぎとされた子 | 従順なる子 |
| 木山とオノシ | キリシタン大名を合成した人物。中心は小西行長であり、大村と大友の要素が混ざる | 小西行長 |
| 矢部(ドラマ版では藪重)、近江、藤子、菊、村次 | おおむね創作である。舞台となる伊豆と、そこに現れる火縄銃は実在する | 種子島、1543年 |
| 『SHOGUN 将軍』では | モデルとなった実在の人物 | 史実を読む |
|---|---|---|
| ジョン・ブラックソーン(按針) | ウィリアム・アダムス。オランダ船『リーフデ』のイングランド人水先案内人、のちの旗本・三浦按針 | ウィリアム・アダムス |
| マルティン・アルヴィト司祭、ツック | ジョアン・ロドリゲス・ツウズ。宮廷付きの通事、最初の日本語文典の著者 | ジョアン・ロドリゲス |
| デラクァ巡察師 | アレッサンドロ・ヴァリニャーノ。イエズス会の巡察師、1600年を通じて日本にいた | 巡察師 |
| ヴァスコ・ロドリゲス | モデルなし。定航船のポルトガル人水先案内人を合成した人物 | ナウ・ド・トラト |
| フェレイラ司令官 | モデルなし。ただし役職のほうは実在する。カピタン・モールは一度の渡航で巨富を築いた | ナウ・ド・トラト |
| フィンク、ファン・ネック、そして乗組員たち | 『リーフデ』の生存者たち。ヤン・ヨーステン・ファン・ローデンスタインは日本に留まり、江戸で身を立てた | オランダの平戸到着 |
虎永のモデルは徳川家康である。1600年には秀吉の幼い世継ぎに代わって政をみる五大老の一人であり、その年の十月には関ヶ原の勝者となり、1603年からは将軍、そして265年にわたり日本を統治する家の祖となった人物である。
小説の虎永は、あらゆる手を先まで読み切る棋士である。記録が示すのは、その場その場で機を捉える即興の人である。関ヶ原の帰趨を決めたのは、家康が買収しはしたものの当てにはできなかった寝返りであった。小早川秀秋は松尾山の上に無傷の八千を擁したまま、午前中の戦闘をまるごとやり過ごし、どちらが勝つかを見定めようとしていた。彼が動いたのは、家康がその陣へ鉄砲を撃ち込み、中立でいることを不可能にしたあとである。
虎永はまた、和らげられてもいる。その最大の理由は、クラヴェルが物語を閉じる場所にある。家康は正室の処刑を命じ、1579年には嫡男信康に自刃を命じている。さらに1614年から1615年にかけては、寺の鐘の銘から口実を作り出し、大坂で豊臣家を滅ぼし、家系を絶つために秀頼の八歳の子を公衆の前で斬首させた。
小説は虎永の源氏の血筋を本物の秘密として扱うが、その背後にある慣例のほうは実在した。将軍の位は源氏の子孫のものと定められており、だからこそ家柄をもたない百姓の子である秀吉はついにこれを得られず、関白、次いで太閤として天下を治めたのである。家康は実際に源氏を称した。その下にある系図が本物であったかどうかは、本アーカイブが決着をつけられる問いではない。
全文を読む:忍耐の覇者:徳川家康の生涯。
石堂和成のモデルは石田三成である。ただし小説は、その地位を無視できない形で取り違えている。石堂は五大老の一員として描かれるが、三成が五大老であったことは一度もない。三成は秀吉の政権を運営した行政官、すなわち五奉行の一人であり、西軍の名目上の総大将は毛利輝元であって、輝元は大坂城に入ったきり、そこから動かなかった。
人物の型もまた別物である。石堂は粗野で、低い生まれの策謀家として描かれる。三成は几帳面で、学識があり、豊臣の世継ぎに対して本心から忠実であった。彼の難点は粗野であることの正反対にあった。秀吉の朝鮮出兵で血を流した諸将は、三成を書類仕事で成り上がった「筆押し」として蔑んだのである。
その最期も、虎永が思い描くような手の込んだ残虐さではなかった。合戦のあとに捕らえられた三成は、縄をかけられ、驢馬に後ろ向きに乗せられて京・大坂・堺を引き回され、1600年11月6日、小西行長と、僧にして外交官でもあった安国寺恵瓊とともに斬首された。
全文を読む:関ヶ原の戦い:幕府を生んだ六時間。
鞠子のモデルは細川ガラシャであり、この人物はまぎれもなく実在した。二人の恋のほうは実在しない。アダムスが豊後に上陸したのは1600年4月19日で、そのまま身柄を押さえられ、のちに関東へ移された。ガラシャはその四か月後、8月25日に大坂で死んでいる。二人を同じ部屋に置く史料は一つもなく、そもそも彼女には、そうした場所へ出向ける立場がなかった。
彼女は1563年に明智玉として生まれ、1578年、十五歳で細川忠興に嫁いだ。1582年、その父は本能寺で織田信長を焼き殺し、十三日後に滅んだ。忠興はただちに彼女を離縁して細川家を謀反から切り離し、そのうえで離縁が許した処刑のほうは選ばず、彼女を山村に見張りつきで置いた。彼女はそこで二年近くを過ごし、さらに十六年を大坂の細川屋敷の内で過ごした。行けるのは夫が許す場所だけであり、それはどこでもないということであった。小説の中心にある仕掛けが成り立たないのは、このためである。鞠子はブラックソーンの通訳であり、彼とともに旅をするのだから。
ガラシャがキリスト教を学んだのは侍女たちを通じてであり、1587年3月29日に大坂のイエズス会の教会へたどり着けたのは、祭礼の続く一週間に紛れ、変装して裏門を抜け出したからにすぎない。その四か月後に秀吉が宣教師を追放したため、洗礼は屋敷の内で、まさにその場合にそなえて略式の授け方を教えられていた侍女・清原いとの手によって授けられた。彼女がそこに築いたもの――イエズス会士が修道院と呼んだ一つの家と、洗礼へ導かれた十七人の侍女――のほうが、小説の描く彼女よりも面白い。
クラヴェルが史実を忠実になぞっている唯一の点が、彼女の死である。1600年に家康が東へ兵を進めると、三成は東軍方の大名の妻子を人質に取ろうと動き、ガラシャはその筆頭にあった。忠興は家老にあらかじめ命を下していた。妻の名誉が危うくなったならば、妻を殺し、そののち自らも死ね、と。8月25日、西軍の兵が屋敷に迫った。ガラシャは自害しなかった。自殺は大罪であり、自らの死を人に命じることもまた、一段隔てた同じ行いにほかならない、と考えていたからである。彼女は屋敷から女と子どもをことごとく外へ出させ、そして死んだ。障子越しに刃を突き入れられたとも、あらわにした首を一太刀で打たれたとも、自らの短刀によるとも伝えられ、互いに相容れない三つの伝えのどれを読むかによる。家老は屋敷に火を放って自害し、三成はただちに人質の計画を捨てた。
クラヴェルは、自分が誰の生涯を借りたのかを承知していた。作中のポルトガル人水先案内人の一人がもつ日本人の妻に、彼はガラシャという名を与えている。
ブラックソーンのモデルはウィリアム・アダムスであり、物語の発端は記録に近い。アダムスは、1598年6月におよそ五百人を乗せてロッテルダムを発ったオランダの五隻の艦隊の航海長であった。日本に到達したのは一隻と二十四人である。『リーフデ』が豊後、現在の臼杵の沖に錨を下ろしたのは1600年4月19日。二十四人のうち立っていられたのは六人で、さらに三人が数日のうちに死んだ。そこから先は、ほとんどすべてが食い違っていく。
日本とヨーロッパとの交易を五十年にわたって独占してきたイエズス会士たちは、プロテスタントの乗組員は海賊であり磔にすべきだと当局に告げた。家康は数日にわたってアダムスから話を聞き、日本に何の害も成していない者を、その国がスペインおよびポルトガルと戦争中であるという理由で殺すべきではない、と結論した。家康はアダムスを四十一日間留め置いたのちに解放し、生存者たちには銀で償い、船の兵装を没収した。青銅砲十九門、砲弾五千発、火縄銃五百挺である。そのいずれかが五か月後の関ヶ原に姿を現したかどうかは議論があり、本アーカイブの記事も、断定せずにそう記している。
アダムスが何者になったかは、ブラックソーンが何者になるかとは別である。彼は直参の家臣である旗本に取り立てられ、三浦按針の名と、逸見に百五十石から二百五十石の知行とを与えられた。日本で最初の西洋式の船を建造し、伊東で八十トンの船を、次いで百二十トンのサン・ブエナ・ベントゥーラ号を造っている。この船は、家康が難破したスペイン人総督ロドリゴ・デ・ビベロに太平洋横断のために貸し与えたものである。彼は数学・幾何・地理を教え、書簡を訳し、対外交易について助言した。軍勢を率いたとも、一隊を調練したとも、いかなる記録にも残っていない。日本語の習得には数週間ではなく数年を要し、その家庭は側室を置く取り決めではなく一つの結婚であった。お雪と記される妻と、二人の子である。彼はジリンガムに妻と娘を残したまま、二度と会うことはなかった。
彼は日本を離れる自由をもたず、離れられるようになったころには、離れなかった。1605年、家康は『リーフデ』の生存者二人に、パタニのオランダ商館への通商の誘いを託すことを許し、これが1609年の平戸商館を生んだ。1613年にイギリス船が来航すると、アダムスはポルトガル人が得たどの特権よりも寛大な免許を勝ち取った。だが船長ジョン・セーリスは彼を信用せず、商館をどこに置くべきかという助言を無視し、イギリスの事業は十年と経たずに潰えた。アダムスは最後には年百ポンドの会社の俸給を受け、朱印状の制度のもとでシャムや琉球への航海を導き、1620年5月、平戸で死んだ。
動かしてはいない。小説は教会に、大老を立てることも失脚させることもできる力を与えている。布教団が実際に握っていた梃子は、それより狭く、商業的で、しかも他人の絹に依存していた。ヴァリニャーノは1578年、年に一度来航する定航船に中国産の生糸50ピクルの枠を確保する交渉をまとめている。マカオで買い、長崎で売る。その利鞘が神学校の費用を賄ったのである。よく効く梃子ではあったが、誰が日本を統治するかについての拒否権ではなかった。
アルヴィト司祭のモデルはジョアン・ロドリゲス・ツウズであり、その輪郭は正確である。ロドリゲスは秀吉、ついで家康に仕えた宮廷付きの通事であり、長崎における幕府の商務代理人であり、話し言葉の日本語についての最初の体系的な文典の著者であった。創作なのは、虎永の懐刀という役どころと、ブラックソーンに対する画策である。彼の実際の失脚は1610年1月、定航船マードレ・デ・デウス号が長崎の港で攻撃され、船長アンドレ・ペソアが降伏を拒んで船を爆破したときに訪れた。イエズス会はロドリゲスを切り捨てるほかないと決し、彼はその年の3月、マカオへの追放に向けて出帆した。アダムスとの競り合いは実在し、そして勝ったのはアダムスであった。
デラクァ巡察師のモデルはアレッサンドロ・ヴァリニャーノである。その適応主義の方針を小説は正確に描いており、彼は1598年8月から1603年1月まで日本にいた。創作なのは、その手の届く範囲である。小説の巡察師は日本の後継争いを差配するが、史実の巡察師はその歳月を、競合する修道会と争い、自らの属するイエズス会からも攻撃されつづけた方針を弁護することに費やした。フェレイラとヴァスコ・ロドリゲスにモデルはいないが、彼らのいる世界のほうは実在する。日本航路のカピタン・モールは一航海かぎりの国王の任命を受け、その値は15万から20万ドゥカートにのぼった。そしてナウ・ド・トラトは、東アジアにおける年に一度の最大の商業行事であった。
この節で最も大きな構造上の創作は木山とオノシである。五大老にキリシタン大名が座ったことは一度もないからだ。実在のキリシタン大名たちは、物語の別の場所にいる。堺の商人の子であり、日本で最も有力なキリシタン大名であった小西行長は、関ヶ原では敗れる側について戦い、教会が自殺を禁じていたために切腹を拒み、そのために斬首された。大村純忠は1580年に実際に長崎をイエズス会へ譲っており、小説の土地譲渡の筋はここから来ている。高山右近は棄教するよりも領地を失う道を選び、マニラで亡命のうちに死んだ。
太閤のモデルは豊臣秀吉であり、1598年9月18日、アダムス上陸の十九か月前に没している。百姓の生まれも猿というあだ名も含めて、クラヴェルの人物像のうちでは史実に近いほうに属する。薄められているのは、彼が築いたものの規模である。1588年の刀狩は百姓から武器を取り上げ、太閤検地は日本中の田を一枚ずつ測り、社会を世襲の身分に凍りつかせて、徳川の長い泰平を可能にした。
落葉の方のモデルは淀殿である。小説は彼女に、虎永との半ば埋もれた恋の過去を与えるが、これは創作である。また彼女を石堂の背後にある決定的な政治意志として描くが、記録はこれを支えない。史料に残る彼女の存在感が現れるのは、もっと後の大坂においてである。1615年1月、百門の大砲が城に火を噴いたのち、彼女は強硬派の諸将を押し切って和議を求め、豊臣家はその代償に堀を失った。そして同じ年の六月、彼女は燃える天守で死んだ。
八重千代のモデルは豊臣秀頼であり、その年齢と置かれた立場は正確である。小説が描きえないのは、その後である。彼は1615年まで生き、家康の孫娘である千姫を娶り、大坂城が落ちたとき二十一歳で死んだ。幼い息子は斬首され、娘は尼寺に入れられ、六十五万石の豊臣の所領は幕府に吸収された。
筋書きである。枠組みも、登場人物も、政治の大半も記録から来ているが、場面から場面へと物語を動かしていく出来事は、おおむねクラヴェルのものであり、ドラマ版はさらに独自の創作を加えている。以下の表はそれらを分けて示す。
| 項目 | どの層か | 記録が示すもの |
|---|---|---|
| ブラックソーンと鞠子の恋 | 小説とドラマ版 | ガラシャは大坂で監視下にあり、アダムスの上陸から四か月後に死んだ。二人を同じ場所に置く史料はない。 |
| 軍略家、部隊指揮官、海戦の勝者としてのブラックソーン | 小説 | アダムスは船を造り、航海術を教え、交易について助言した。軍勢を率いたとする史料はない。 |
| 大坂への忍びの襲撃、地震、船の焼失 | 小説 | クラヴェルの創作である。ドラマ版は焼失を残し、その動機を虎永に付け替えた。 |
| 日常の出来事としての切腹 | 小説 | 切腹は武士階級の特権であり義務であって、敗北、処断、恥辱に際して行われるものであり、日々の出来事ではなかった。 |
| 木山とオノシを通じて大老を立て、また失脚させる教会 | 小説 | 五大老にキリシタン大名が座ったことはない。布教団の梃子は生糸の枠であって、評定の席ではなかった。 |
| オノシのハンセン病 | 小説 | 創作である。関ヶ原でハンセン病を患っていた指揮官は西軍の大谷吉継であり、彼は戦場で死んだ。 |
| 虎永に対する落葉の方の個人的な遺恨 | 小説 | 創作である。ドラマ版はこれを捨て、代わりに政治的な動機を与えた。 |
| 評定の場での広松の切腹 | ドラマ版 | 創作である。細川藤孝は1600年を生き延びた。その田辺城は合戦の二日前に開城している。 |
| 戦場で討たれる石堂 | ドラマ版 | 三成は捕らえられ、三つの町を引き回されたうえ、1600年11月6日に斬首された。 |
逆向きの転倒が一つある。小説で「鉄拳」と呼ばれる戸田広松は、学問を怪しむ一本気な武人だが、細川藤孝は当代随一の歌人の一人であった。
筋書きの骨格は残し、語り方についてはほとんどすべてを変えている。小説はブラックソーンのものであり、日本は彼の目を通して見られ、彼に向けて説明される。ドラマ版は彼を三人の主役の一人へと降ろし、台詞のおよそ三分の二を字幕つきの日本語で語らせ、日本人どうしの場面を、それを訳させるヨーロッパ人を居合わせないまま進行させる。
ブラックソーンが小さくされているのは意図的である。その日本語はたどたどしいままで、戦術上の提案は無視されるか他の者によって改められ、小説にあった旗本の英雄という軌跡は与えられない。細部においてではないにせよ、効果としては、そのほうが史実のアダムスに近い。彼が重んじられたのは、指揮できることによってではなく、知っていることによってであった。鞠子は内面を得て、恋の中心という位置を失う。落葉の方は一個の完全な政治的知性として組み立て直される。藪重は醜怪な脇役から主役の一人へと引き上げられる。
ドラマ版はまた、生き延びではなく死を創作する。評定の場での広松の切腹、待ち伏せによる長門の無意味な死、戦場で討たれる石堂である。いずれも記録に根拠をもたない。その一方で、この制作は衣裳・髪・所作・台詞について日本の時代考証の専門家を用いており、小説が創作し、あるいは取り違えたものの多くは、静かに取り除かれている。直されていないのは、中心にある仕掛けである。鞠子とブラックソーンは、やはり出会う。
小説もシーズン1も、合戦の手前で止まる。合戦は予告されるだけで、ついに描かれない。原作は虎永の腹づもりを彼の内心の独白によって明かし、ドラマ版は彼にそれを声に出して言わせ、ブラックソーンの船の焼失を彼自身の仕業とする。
実際に起きたのはこうである。1600年10月21日、両軍は美濃の霧に満ちた谷で相まみえ、戦いはおよそ六時間続いた。地の利は西軍にあったが、その陣を守る兵のおよそ三分の一は、すでに戦わないと決めていた。小早川が松尾山を駆け下って大谷吉継の側面を衝き、さらに四つの部隊がこれに続いて、午後二時には決着がついていた。これは宗教戦争ではなく、キリシタンの陣営というものも存在しなかった。戦場の16万3000の兵のうち、洗礼を受けた将が率いたのは11から12パーセントで、しかも両軍にほぼ等しく分かれていた。この点については専用の記事がある。
その後、家康は1603年に将軍の位に就き、1605年にはこれを秀忠に譲りながら、大御所として権力を握りつづけた。1614年にキリスト教を禁じ、1615年には大坂で豊臣家を滅ぼし、1616年に死んだ。続く迫害は四半世紀にわたり、ポルトガル人は1639年に追放された。この流れを順を追って見るなら年表を、日本がいかにして、なぜ閉じたのかについては鎖国をめぐる問答を参照のこと。
全文を読む:関ヶ原の戦い:幕府を生んだ六時間。
シーズン2は独自の物語である。クラヴェルの〈アジアン・サーガ〉には、この登場人物たちを追う続篇が存在しない。そのため制作陣は脚本部屋でこれを組み立てた。舞台はシーズン1のおよそ十年後で、虎永とブラックソーンの物語が続く。本頁を書いた時点でなお制作中であり、ここにその筋書きは記していない。筋書きについては何も公表されていないからである。
十年の跳躍が史実のうえで行き着く先は、この出会いの歴史で最も密度の高い時期の一つである。家康は1605年に将軍職を退き、駿府にあって御簾の陰から天下を動かしていた。1610年1月、マードレ・デ・デウス号事件は日本へ送られたうちで最も豊かな積荷を灰にし、ジョアン・ロドリゲスから地位を奪った。オランダ人が、続いてイギリス人が平戸に商館を開いた。家康は中国と朝鮮への打診を送った。1612年の岡本大八事件は幕府を1614年のキリスト教禁令へと押しやり、そこから先のすべては、秀頼と淀殿が死ぬ大坂の陣へ向かって流れていく。
配役の発表についての注意である。新しい登場人物の名が、説明を伴わないまま公表されており、そのうち二つはヨーロッパの洗礼名である。ここから迫害を扱う筋書きが読み取られてもいるが、それは推測にすぎない。名前は同定ではなく、本頁は発表されたいかなる登場人物も、史実の人物に当てはめない。
全文を読む:徳川幕府のキリシタン迫害 1617–1640。
『SHOGUN 将軍』の舞台は、本アーカイブが端から端まで扱う一世紀の、そのうちの一年である。1543年の種子島漂着から、1639年の追放までの一世紀である。
| 何を求めて来たか | ここから |
|---|---|
| 時代の全体を、問答で | 南蛮時代 |
| 定航船が運んだ貿易 | 南蛮貿易 |
| 日本が門戸を閉ざした理由 | 鎖国令 |
| 1600年という年そのもの | 関ヶ原の戦いと両陣営の十字架 |
| 司祭たちが属するキリシタンの世紀 | キリシタンの世紀と改宗者はどれだけいたのか |
| ヨーロッパ人はいかにして辿り着いたか | 種子島、1543年とナウ・ド・トラト |
| 日本人は彼らをどう見たか | 南蛮屏風と蛮人の目を通して |
| すべてを順序どおりに | 年表と全年表 |
| 人と言葉 | 人物事典と用語集 |