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南蛮の地を訪ねる──158の場所、今とむかし

要点 日本におけるポルトガルの世紀の記録には、158の地名が現れる。カラック船が碇を下ろした九州の港から、日本船が一度も見なかったアンデスの銀山まで。本総覧はそれらを地域別に並べ、各地について、そこが何であったか、そもそもなぜ記録に現れるのか、いまそこには何があるのかを示す。古い綴りを現代のどこかに安全に結びつけられない場合は、推測を置かず、結びつけられないと書く。

2026年9月編纂。現代の対応地は現行の行政名に従うが、行政名は変わる。歴史的な比定は公刊された研究に従うが、いくつかの項目については定説がなく、その旨を明記した。

翻訳について:このページはAI(人工知能)によって日本語に翻訳されました。歴史用語や固有名詞の正確性には細心の注意を払っておりますが、翻訳に誤りがある場合は contact@nanban.pt までご連絡ください。

このページは何であり、どう読むか

これは引き当てるための表である。日本におけるポルトガルの世紀の史料──イエズス会士の書簡、航海記、交易記録、そしてそれらから描かれたヨーロッパの地図──に現れる地名を集め、各地について三つの問いに答える。そこは何であったか。なぜ記録に現れるのか。いまは何と呼ばれるか。

番号は本頁の住所である。項目は1番から158番まで、六つの地域に分けて並び、末尾の「紛らわしい地名」のセクションは番号で各項目へ戻す。古い綴りを手にした読者は、ほかを読まずにどの行へも直接たどり着ける。

本頁はサイトの短い地名事典ではなく、両者は別の仕事をするために作られている。 主要地名の事典は、物語を担う二十の地に、記述と座標と航路図上の位置を与える。どの地が重要かを知りたければ、そちらから始めるとよい。本頁はその下に敷かれた引き当ての層である。記録に現れるすべての名──水先案内人が書き留めたという、ただそれだけの理由でここにある名も含めて。読むならあちらから。名を手にして、それが何であったかを知りたいときにこちらへ。

対象範囲。 中心となる時期は、ポルトガル人の種子島来着の通説的な年である1543年ごろから、ポルトガル船の来航が禁じられる1639年までである。1639年以降のオランダの活動と、それ以前のいくつかの出来事は、記録が必要とする限りで収めた。ここに挙げた地の多くは、直接のヨーロッパと日本の接触というよりも、より広いアジアの交易と宣教の世界に属する。南蛮の接触は、ヨーロッパ人を通じてと同じだけ、アジアの商人、船乗り、支配者、キリシタン共同体を通じて動いていたのであり、ヨーロッパ船の寄港地だけを並べた総覧は、この交易を描き誤ることになる。交易そのものについては南蛮貿易の手引きを、出来事の順序については完全年表を参照のこと。

最後の列は現代の対応地であって、存続の証ではない。 「いまはどこか」は、生きた集落と、失われた建物と、廃された行政単位と、使われなくなった名とを区別する。十六世紀のものがその場所に建っていると主張するものではない。

確度を示す語は三つ、意味はこれに尽きる。 推定は、蓋然性は高いが確定していない比定を指す。暫定は、符合はするが複数の土地が共有する名に依拠している比定を指す。未詳は、綴りまたは記述を現代のいずれの土地にも安全に結びつけられないという意味であり、推測は示さない。古い名が現代の地図から消えていることは、それ自体では集落が消えたことの証拠にならない。「なぜ記録に残るか」の列では、文脈のみが、所在は確実だが日本に関わる個別の出来事が確認できない地を指す。史料がその名を挙げている以上こうした項目は残すが、来航や商館や宣教師の居館を作り出して与えることはしない。

I. 九州と西日本の港・領国

交易の本拠地である。1番から36番までは、大きな港から、単独の錨地、長崎の町々、そして航海指南のほかにはどこにも名の出ない島々にまで及ぶ。

番号 史料上の名 なぜ記録に残るか いまはどこか
1 長崎 1571年以降、ポルトガル貿易の主要港。マカオを経た中国産生糸が日本の銀と交換され、イエズス会の一大拠点でもあった。大村純忠が1580年にイエズス会へ譲り、徳川政権より先に秀吉がこれを掌握した。 長崎県長崎市。いまも生きた港湾都市である。初期の海際は大規模に埋め立てられ、造り替えられた。
2 平戸 1550年代のポルトガル船の重要な渡航先であり、のちに1609年と1613年に設けられたオランダ商館・イギリス商館を受け入れた。オランダの交易は1641年に出島へ移る。 長崎県平戸市。往時の港は残り、オランダ商館の博物館には倉庫の復元がある。
3 鹿児島 フランシスコ・ザビエルが1549年8月にここへ上陸し、当初は島津氏の好意的な庇護のもとで、日本における最初の継続的なイエズス会宣教を始めた。 鹿児島県鹿児島市。来着と宣教は地元で顕彰されている。
4 府内(大分) 豊後における大友氏の本拠であり、初期の宣教拠点。ルイス・デ・アルメイダがここに病院を設け、大友氏の庇護がキリスト教の教えとポルトガル人来訪者との交流を支えた。 大分県大分市中心部の歴史的な府内地区。名は城跡とともに地元に残るが、初期の宣教施設は原形をとどめない。
5 横瀬浦 大村純忠が1562年にポルトガル貿易へ開いた港。教会と交易集落は1563年に破壊され、より安全な港を探す動きがそこから始まった。 長崎県西海市横瀬浦。集落と港はいまも在り、横瀬浦公園が短命に終わった国際港を記念する。
6 福田 横瀬浦の失敗を受けて、1565年からポルトガル船が用いた。交易が長崎へ移っていく途上の中継地である。 長崎市福田本町とその港。いまも海沿いの集落である。
7 口之津 有馬領の港で、1560年代に海外交易へ開かれた。九州貿易が育っていく過程を通じて、ポルトガルのカラック船と宣教師の旅程に用いられた。 長崎県南島原市口之津町。現役の港でありフェリーの発着地である。
8 山川 海外交易に用いられた薩摩の風待ちの良港で、長崎が優位となる前にはポルトガル船の寄港もあった。 鹿児島県指宿市山川。港はいまも使われている。
9 博多 ポルトガル人の到来にはるかに先立つ大商業港で、日本を中国・朝鮮と結んでいた。その商人と流通網が舶来品をさばき、北部九州と長崎をつないだ。 福岡県福岡市博多。旧来の商人町は現代の市域の一部である。歴史上の博多と現在の博多区とは、範囲が一致しない。
10 臼杵 大友宗麟の居所であり、豊後におけるキリシタン庇護とイエズス会活動の中心。府内と同じ、揺れ動く組織網に属した。ここでのコレジオと修練院の設立の前後関係は、史料に即した検証を要する。 大分県臼杵市。城跡と歴史的な町並みは残るが、初期のイエズス会施設は稼働する組織としては残っていない。
11 日出 交易がまだ一港に集中していなかった初期に、ポルトガル船が訪れた豊後の港の一つ。大友氏の勢力圏への海からの入口という点に意味がある。 別府湾に臨む大分県日出町。いまも海沿いの町である。
12 阿久根(Angune) 西九州の航路をめぐる記述に現れる薩摩の沿岸港。ポルトガルの主要拠点ではなく、副次的な港である。 鹿児島県阿久根市。「Angune」は古いヨーロッパ側の表記である。
13 川内(Sendai) 内陸と海岸を結ぶ薩摩の河口の集落で、キリシタンの避難民と、十七世紀初頭の宣教活動に関わる。 川内市、現在の鹿児島県薩摩川内市の市街中心。これは川内であって、宮城県の仙台ではない。
14 京泊 川内川の河口の港。1600年代初頭のドミニコ会の宣教と、島津氏がフィリピンとの関係を築こうとした動きに関わる。 河口の北岸、鹿児島県薩摩川内市京泊。古い教会は顕彰の地であって、現存する建物ではない。
15 Takashima(高島) フロイスがフアン・フェルナンデスから日本語を学んだという記述が指すのは、彼が1563年から1564年にかけて滞在した度島(たくしま)であって、「高島」と称する島々のいずれでもない。上智大学によるこの挿話の研究がこの比定を確定している。 長崎県平戸市度島。平戸島の北にある有人島である。
16 樺島(Cabexuma) 長崎方面への進入路を述べた航海記述に現れる沿岸の目印。古い記録は平坦な島と描くが、起伏のある現在の島とは符合しにくく、原文に当たって確かめる価値がある。 推定:長崎市の樺島(かばしま/かばじま)。野母半島の南端沖にあり、いまは橋で結ばれている。五島列島の同名の島とは別である。
17 Yukishima サン・セバスティアン号の錨地として名が挙がる。綴りも出来事も、独立には確かめられなかった。 未詳。 平戸に近い島を指しているが、この綴りからは現代の比定も消滅も立証できない。航海記そのもの、あるいは漢字表記があれば決着する。
18 茂木 港とその収益は、大村純忠が1580年にイエズス会へ与えた寄進の一部をなし、長崎の宣教とその地域経済の基盤を支えた。 長崎半島の東側、長崎市茂木。いまも港の集落である。
19 志岐 天草の在地領主の本拠であり、改宗と宣教の初期の舞台。小さな海の領主たちがいかに大きな意味を持ったかを示す例である。 天草下島の北西部、熊本県苓北町志岐。集落と城跡は判別できる形で残る。
20 上島 記録のうえではガスパル・ヴィレラと結びつけられる。天草にキリスト教が広まったことは確かだが、その個別の結びつきは検証を要する。 暫定:天草上島。天草の二つの主島のうち東側で、現在の熊本県上天草市および天草市にまたがる。「上島」は日本で唯一の島名ではない。
21 深江(Fukaye) 長崎湾の文脈では、これは長崎へと成長した集落の古い名であって、必ずしも島原半島の別の町である深江を指さない。 推定:長崎の歴史的な港の集落。現在の市域に吸収された。「深江」の正確な範囲は、どの史料を読むかによる。
22 名護屋(肥前) 1592年以降の朝鮮出兵における秀吉の本営。宣教師と外国の使節はここでその政権と会い、膨大な数の大名と軍勢が集まった。 佐賀県唐津市鎮西町の名護屋城跡。城は遺構を除いて地上には失われたが、城跡と付属の陣跡は保存されている。愛知の名古屋ではない。
23 八代(Yatsuhiro) 小西氏の利害とキリシタン共同体に結びついた肥後の港で、肥後南部を九州の宣教網・交易網とつないだ。 熊本県八代市。「Yatsuhiro」は「八代(やつしろ)」の古い、あるいは不正確な音写である。
24 宇土(Udo) 宇土(うと)は肥後における小西行長の主城の城下町であった。彼のキリシタン庇護によって、1600年の敗北と処刑まで宣教にとって重要な地であり続けた。 熊本県宇土市。城は原形をとどめる城郭ではなく史跡である。
25 熊本 加藤清正とその後継者のもとでの肥後の政治的中心。地域の対抗関係、近隣のキリシタン共同体の統制、そして宣教をとりまく政治状況に関わる。 熊本県熊本市。熊本城は、史跡と、修復または復元された建造物の複合として残る。
26 球磨 相良氏が治めた内陸の地域で、肥後を述べた記録が描く政治的・商業的な地理の一部をなす。ヨーロッパ側の施設があったことは確認されていない。 熊本県人吉市および球磨郡を中心とする球磨地方。一つの町ではなく地域である。
27 Amakubo 日本人イエズス会士の画家マンショ・オタオの出生地として記録され、この地をキリシタン美術の制作と伝播に結びつける。 未詳。 長崎県、歴史上の大村領内。確かな現代の集落との一致は見いだせなかった。茨城県つくば市の天久保とは別である。
28 Tone イエズス会士のための大村領内の避難所と記される。ある研究は、一般的な追放のころ、1614年にも Tone の名を置いている。 歴史上の大村領内の正確な地点は未詳。似た現代名があるというだけでは、避難所を特定するには足りない。
29 原城 1637年から1638年にかけての島原・天草の一揆勢──その多くはキリシタンであった──の最後の拠点。その陥落がキリスト教弾圧の決定的な局面となった。 南島原市南有馬町の原城跡。攻囲ののち破却され、土塁、石垣、発掘された遺構が世界遺産の構成資産のうちに残る。
30 島原半島 有馬氏が支えたキリスト教の拠点、次いで迫害の地、そして1637年から1638年の一揆の地。大名の改宗、宣教組織、信仰の最終的な弾圧が、その歴史で一つに結ばれる。 長崎県の島原半島。島原市、雲仙市、南島原市が占める。
31 浦上 長崎に隣接するキリシタンの村で、イエズス会の所領と、のちにひそかに信仰を守り伝えた共同体に関わる。 長崎市浦上地区。旧来の村は市域の一部である。現在の大聖堂は戦後の再建であって、南蛮時代の建造物ではない。
32 出島 1636年、ポルトガル商人を隔離するために築かれた。1639年の追放ののち、1641年にオランダ商館を受け入れた。 長崎市中心部の出島。埋め立てによって人工島は市街に取り込まれ、いまは発掘と復元建物が商館を伝える。もはや独立した島ではない。
33 西坂 1597年の二十六聖人と、1622年の元和の大殉教を含む後年のキリシタン処刑の刑場。 長崎市西坂の丘。日本二十六聖人の記念碑と記念館が顕彰する。
34 外浦町(Hokaura-machi) 国際港の最初の町立ての一つ。海際という位置ゆえに、交易とイエズス会の長崎を支える実務の一部をなした。 外浦町(ほかうらまち/そとうらまち)長崎市中心部の江戸町の区域に編入された。歴史上の町名は現行の住所ではない。
35 平戸町 平戸からの移住者と商人に結びついた長崎の最初期の町の一つ。交易だけでなく人が新しい港へ移ったことの証である。 現在は長崎市万才町の一部。独立した現代の町ではなく、歴史上の町名である。
36 Ama Bay 日本南部の錨地として名が挙がるのみで、航海も国名も、手がかりとなる細部も付されていない。 未詳。 確かな現代の対応地は与えられない。現代の地名にないことをもって、その湾が消えた証拠とすることはできない。

II. 中部・北日本と、その他の日本の島々

37番から60番まで。種子島、対馬、壱岐は地理のうえでは九州に属するが、この区分は記録そのものに従うものであり、相互参照のためそのまま残した。内陸の地は、錨地としてではなく、政治と銀と権力への接近という点で意味を持つ。

番号 史料上の名 なぜ記録に残るか いまはどこか
37 京都(都・Miyako) 天皇の都であり、イエズス会の大きな宣教地。宣教師が求めたのはその政治的上層への接近であり、南蛮寺はそれを得たことの目に見える印であった。「都(みやこ)」は単に首都を意味する語だが、ヨーロッパ人はこれを地名として用いた。 京都府京都市。南蛮寺は建物としては残らず、跡地と遺物がその記憶を伝える。
38 富裕な商人の港であり、鉄砲製造の中心地、舶来品の重要な市場でもあった。宣教師はその商業と有力者とのつながりを活用した。 大阪府堺市。旧来の港の景観は、都市化と埋め立てによって大きく変わった。
39 大坂 秀吉の城と政庁は、宣教師を国政と接触させた。商業上の重みとキリシタン共同体もあって、主要な宣教地でもあった。 大阪府大阪市。現在の天守は二十世紀の再建であり、残る石垣の多くは後年の徳川による再築に属する。
40 安土 信長の城下町であり、1580年にヴァリニャーノのもとで設けられたセミナリヨの地。キリスト教教育を、信長の宮廷への接近と結びつけた。 滋賀県近江八幡市安土町。城は1582年の信長の死後に焼け、礎石と石段が残る。セミナリヨの建物は失われた。
41 江戸(東京) 徳川の政治的中心。外国の代表者が交易上の特権を求め、キリスト教が弾圧された地である。ヨーロッパ人の謁見は幕府との関係の一部であった。 東京。江戸は1868年に改称された。江戸城跡は主として皇居とその御苑が占める。
42 駿府(静岡) 将軍職を退いたのちの家康の居所であり、なお実権と対外交渉の中心であった。ウィリアム・アダムスや来訪する商人は、ここで家康と応対した。 静岡県静岡市中心部。駿府城は公園、遺跡、そして一部復元された建造物として残る。
43 奈良 畿内を旅する宣教師が記した宗教的・文化的世界の一部。文脈のみ。 その記述そのものからは、特定の茶会も会見も確定できない。 奈良県奈良市。いまも大寺院と文化遺産の都市である。
44 山口 ザビエルは1551年に大内氏の許しを得てここで説教し、コスメ・デ・トーレスが宣教を引き継いだ。日本で最も早い、まとまったキリシタン共同体の一つである。 山口県山口市。記念の地が宣教を伝える。現在のザビエル記念聖堂は、当初の建物ではない。
45 岐阜 安土以前の信長の本拠。ここでの宣教師との会見が、庇護と布教の自由をめぐる交渉に岐阜を結びつけている。 岐阜県岐阜市。現在の山頂の天守は復元である。
46 姫路 文脈のみ。 南蛮の接触が起きた築城と鉄砲の時代を示す例である。記録に現れることは、ヨーロッパ人技術者がこの城を設計したことを立証しない。 兵庫県姫路市。名高い現存の主要建築群は、おおむね十七世紀初頭のものである。
47 大森銀山(石見国) より正確には石見銀山である。大規模な産銀地であり、中国およびヨーロッパの仲介者との交易を支えた地金の供給源であった。 島根県大田市の石見銀山と大森の町。採掘は終わり、坑道、集落、輸送路が世界遺産の文化的景観をなす。
48 佐渡島 ここでの金銀の産出は徳川の財政と地金経済を強めた。大久保長安が鉱山を差配し、1613年の彼の死後の疑獄は、立証された謀議とは区別すべき嫌疑を含む。 新潟県の佐渡島・佐渡市。歴史上の鉱山は遺産であって、稼働する地金鉱山ではない。
49 比叡山 1571年の信長による延暦寺焼き討ちは、イエズス会士が注視していた政治的・宗教的抗争の大きな出来事であった。 京都府と滋賀県の境に位置する比叡山延暦寺はいまも活動する仏教の拠点だが、現存する伽藍は連続性と同じだけ後年の再建を映している。
50 琵琶湖 中部日本を支える輸送の動脈であり、安土の舞台でもある。海外の海運ではなく、宣教師の旅程と信長の政治地理に属する。 滋賀県の琵琶湖。いまもそこに在るが、湖岸と周辺の干拓地は変わっている。
51 北ノ庄(越前) 柴田勝家の城下町で、1583年の秀吉との抗争のなかで滅びた。文脈のみ。 この時代が記録した政治の物語の一部である。 福井県福井市中心部。旧城は発掘遺構を除いて失われ、後継の町が福井となった。
52 種子島 1543年、中国の交易船に乗ってもたらされたポルトガル式火縄銃の伝来の、通説上の地。その模造と普及が日本の戦のかたちを変えた。 鹿児島県の種子島。西之表市と中種子町・南種子町からなる。地元の博物館がこの出会いを伝える。
53 対馬 宗氏のもとで日本と朝鮮を仲介した主要な島。その交易は、ヨーロッパ人が作り出したのではなく参入したにすぎない、既存のアジアの網の目を説明する。 長崎県の対馬・対馬市。島は残るが、藩は残らない。
54 壱岐 九州と朝鮮を結ぶ航路上の要衝の島。交易にも略奪にも、また秀吉の朝鮮出兵にも関わる。 長崎県の壱岐島・壱岐市
55 浦賀 スペイン領マニラおよびヌエバ・エスパーニャとの関係と通商を築こうとする試みに関わった、徳川初期の港。 神奈川県横須賀市浦賀。港は残る。より広く知られるペリーとの結びつきは、はるか後年の1853年のことである。
56 陸奥 金と、伊達氏・南部氏の領国と、北日本についてのヨーロッパ側の知識に結びついた北の国。伊達政宗の慶長遣欧使節が、この広い地域に直接の外交上の接点を与えている。 東北本州の大部分を占める廃された旧国。現在の福島、宮城、岩手、青森の各県にまたがる地域を含む。現在のむつ市だけと同一ではない。
57 蝦夷(北海道) 本州の北にあるアイヌの地で、ヨーロッパの地理的知識の外縁にあった。1643年のオランダによる探査は、南蛮の直後の延長に属する。 主として北海道。歴史上の蝦夷・蝦夷地は、より広く、理解の揺れる北方の地域を指すこともあり、現在の島や道と常に厳密な同義ではなかった。
58 津軽海峡 本州と蝦夷のあいだの水道で、北方の航海と、日本がどこで終わるのかを見定めようとするヨーロッパ側の試みに関わる。 青森県と北海道を隔てる津軽海峡
59 南部(岩手県) オランダ船ブレスケンス号が1643年に山田湾へ寄港し、乗員十名が拘束され訊問を受けた。南蛮時代の中心期からはやや後れる。 上陸地は岩手県山田町の山田湾。かつては南部氏の盛岡藩に属した。南部は大名家と藩の呼称であって、現在の岩手県全体の別称ではない。
60 聚楽第 秀吉は1591年にここでヴァリニャーノと帰国した天正の使節を引見し、彼らのヨーロッパ行を、日本の政治的権威との周到に演出された対面へと作り変えた。 京都市上京区の旧邸跡。1595年に取り壊され、まとまった建築としては残らない。

III. 中国と東アジアの海の要衝

61番から77番まで。日本貿易とは中国貿易であった。日本の銀が中国の生糸を買ったのであり、以下の地は、その生糸の産地であり、それを運ぶ船の根拠地であり、明が禁じたときに無許可の通商が身を寄せた場所である。

番号 史料上の名 なぜ記録に残るか いまはどこか
61 マカオ(澳門) 日本貿易におけるポルトガルの主要拠点であり、イエズス会の養成・財政・避難の中心。日本の銀を中国の生糸に、そしてより広いポルトガルの航路網に結びつけた。この居留地は、のちの植民地としての地位よりはるか以前から、中国の統治のもとで発展した。 中華人民共和国マカオ特別行政区。ポルトガルの施政は1999年に終わった。歴史地区は世界遺産であり、中国とポルトガルの出会いの証跡を多く伝える。
62 広州(Canton) マカオの商人が日本向けに買い付けた生糸を供給した、中国側の主要市場。交易会と中国商人の網の目に入れるかどうかが、カラック貿易の要であった。 中国広東省広州市。「Canton」は古いヨーロッパ側の呼称であり、現在の港は歴史上の海際をはるかに越えて広がる。
63 寧波 古くからの日中交易港。近隣の非合法な海上の網の目は、明の禁令下で初期のポルトガル商人をも受け入れた。 中国浙江省寧波。いまは大きな都市であり港である。
64 双嶼 中国・日本・ポルトガルの商人を公の規制の外で結びつけた沖合の拠点。1548年に明の軍が破壊するまで続いた。 浙江省舟山の六横島に結びつけられる歴史上の港。十六世紀の交易集落は消滅したが、島にはいまも人が住む。
65 上川島 沖合の交易の寄港地であり、日本での宣教ののち中国へ入ろうとしたザビエルが1552年に没した島である。 中国広東省台山市の上川島。いまも人が住み、ザビエルの記念の地がある。ヨーロッパ側の古い表記には São João、Sancian がある。
66 浪白澳(Lampacau) 活動がマカオへ集約される以前、1550年代のポルトガルの一時的な交易・宣教の居留地。 もはや独立した島ではない。 マカオの文化当局が公刊した歴史地理の研究は、これを広東省珠海市金湾区に置き、堆積によって隣接する陸地と一体化したとする。正確な輪郭はなお定かでない。
67 漳州 福建の商業の中心で、その海上の後背地──とりわけ月港──が、中国の物産をマニラや、日本人商人とヨーロッパ商人が用いたその他の東南アジア市場と結んだ。 中国福建省漳州。歴史上の海港である月港海澄・龍海の一帯にあり、漳州の中心部と同一視すべきではない。
68 福州 福建の行政と商業の中心で、琉球の朝貢体制と、ヨーロッパ人が出会った中国の海の世界とに結びついていた。 中国福建省福州。その河港・沿岸港の区域を含む。
69 南京 明の経済と学問の大きな中心であり、中国におけるイエズス会活動の地でもあった。その結びつきは、より広い宣教と、中国側の供給経済を通じてのものである。 中国江蘇省南京。明の南の都であったが、南蛮時代の大半を通じて王朝の常の在所ではなかった。
70 海南 華南と東南アジアを結ぶ航路上の、島の目印であり交易の地域。文脈のみ。 日本側・ヨーロッパ側の特定の拠点は示されていない。 中国の海南島。海南省の主島である。
71 安海 鄭芝龍の海上ネットワークの福建側の拠点で、十七世紀初頭に中国、台湾、日本、東南アジアを結んだ。 中国福建省泉州市晋江の安海。町は残るが、かつての港湾環境は変わっている。
72 南澳 中国東南部の海のネットワークにおける沖合の避泊地であり交易拠点。合法な商いと密貿易と略奪が入り混じった。 中国広東省汕頭市の南澳島・南澳県
73 遼東 朝鮮の戦役と、明と満洲の抗争に揺れた北東の要衝。その意味は、ポルトガルの日本貿易の港としてではなく、政治的・地理的なものである。 歴史上の遼東地方、とりわけ中国の遼東半島と遼寧省東部。その境界は移ろい、現在のどの行政区とも一致しない。
74 憑祥(広西) 中国とヴェトナムの国境の関門で、海の航路をとりまく陸上の交換体系の一部をなす。文脈のみ。 日本との具体的な結びつきは示されていない。 ヴェトナム国境に臨む中国広西の憑祥。江西の萍郷とは別である。
75 台湾(フォルモサ、Isla Hermosa) 1624年以降のオランダの居留地は日本および中国との交易を支え、1626年には北部にスペインの拠点が続いた。そこでの日本商人とオランダ東インド会社の争いは、中国貿易をめぐる競争がいかに鋭く感じられていたかを示す。 台湾ゼーランディア城台南の安平にある史跡である。基隆淡水は北部の別々の港であり、後者はいまの新北市にある。「フォルモサ」は島の古いヨーロッパ側の呼称である。
76 澎湖諸島(ペスカドーレス) 台湾海峡の要衝の島々。オランダは1622年から1624年までここに拠点を置き、のち台湾南西部へ移った。 台湾が施政する澎湖諸島・澎湖県。「ペスカドーレス」はポルトガル語に由来する古い呼称である。
77 琉球王国(那覇) 日本・中国・東南アジアを結んだ独立の海洋王国。1609年の薩摩の侵攻は従属を強いたが、王国とその対中朝貢関係は存続した。 主として日本の沖縄県那覇はいまも市である。王府の中心は首里で、現在は那覇の一部である。王国が廃されたのは1879年であって、1609年に即座にではない。

IV. 東南アジア

78番から115番まで。副次的な港や産地について、ここでいう関わりとは、たいていの場合、日本の朱印船、ポルトガルの私商人、スペイン領マニラ、あるいはオランダ東インド会社を支えた商業の世界に加わっていた、ということである。すべての地が日本へ船を送ったという意味ではない。

番号 史料上の名 なぜ記録に残るか いまはどこか
78 マニラ(ルソン島、フィリピン) 1571年以降のスペインの植民地首府。中国物産の大市場であり、日本人居留民とキリシタンの亡命者の地であり、マニラ・アカプルコ間ガレオン航路の太平洋側の終点であった。 ルソン島のフィリピン、マニライントラムロスは現存する歴史的な城壁市街で、戦災ののち大きく修復された。
79 マラッカ(ムラカ) 1511年から1641年までポルトガルの領有下にあり、インド洋と東アジアの海を結ぶ航路を扼した。宣教師にとっても、日本へ向かう交易にとっても重要な寄港地であった。 世界遺産であるマレーシア、ムラカ(マラッカ)市。歴史的な町並みは残るが、ポルトガルの要塞は断片を残すのみで、海岸線は埋め立てによって動いている。
80 バタヴィア(ジャカルタ、ジャワ島) 1619年にオランダ東インド会社のアジア本部として建設され、平戸と出島の商館を含め、日本へのオランダの海運・通商・政策を統括した。 インドネシア、ジャカルタ。歴史上のバタヴィアは、とりわけコタ・トゥア(旧ジャカルタ)にあたる。
81 バンテン アジアとヨーロッパの商人が肩を並べて働いた国際的な胡椒の港であり、オランダのバタヴィアと競ったイギリスの初期の商業拠点でもあった。 インドネシア、ジャワ島バンテン州のセラン近郊にあるバンテン・ラマ(旧バンテン)。王宮と宗教施設の遺構が旧都を示す。現在の州はそれよりはるかに広い。
82 アユタヤ(シャム) シャムの都。大きな日本人町を擁し、とりわけ鹿皮の朱印船貿易で知られた。日本人居留民は王室や軍の職を務め、山田長政もその一人であった。 世界遺産であるタイ、アユタヤ。旧都は1767年に破壊され、生きた市街のなかの遺跡公園として残る。日本人町は顕彰されている。
83 パタニ 地域の物産を扱い、日本・中国・ヨーロッパの商人と交易した国際的な港でありスルタン国。 歴史上のパタニは、主として現在のタイ南部パッタニー県にあたる。クルセとバン・ダトの周辺にある古い王都の港の跡は、のちのパッタニーの市街と区別すべきである。
84 トンキン 黎・鄭政権下のヴェトナム北部を指すヨーロッパ側の呼称。日本と、のちにオランダと商業上の結びつきを持った交易と宣教の地域である。 港でも現在の国家でもない歴史上の地域名。おおよそヴェトナム北部で、ハノイと紅河デルタを含む。
85 コーチシナ(ホイアン/トゥーラン/Baifo) 初期のヨーロッパ側の用法では、コーチシナはたいてい阮氏の治める南の政権を指し、当時その中心は中部ヴェトナムにあった。ホイアンは日本人居留民を擁する大きな国際港であった。三つの名は関連はするが互換ではない。 ホイアン──フェイフォ(Faifo)とも、「Baifo」のような綴りでも呼ばれる──は現存する歴史的な港であり、世界遺産である。トゥーラン(Tourane / Touraine)ダナンを指す別の港である。コーチシナは廃れた呼称であり、のちにヴェトナム南部を指すフランス植民地期の、より狭い意味を帯びた。
86 チャンパ ヴェトナム沿岸のチャム諸政権は海上交易に加わり、ヨーロッパの航海記録や、隣接する阮氏領との関係に現れる。 独立した王国は残らない。歴史上のチャンパヴェトナム中部から南部の各地に広がっていた。チャムの共同体と遺跡は残る。
87 カンボジア 日本商人の渡航先であり、日本人居留民の地でもあった。林産物と河川の商いが、海域東南アジアと結びつけていた。 カンボジアはいまも国家である。ロンヴェクやウドンといった当時の中心地は史跡であって、現在の国家全体の別称ではない。
88 メコン川 カンボジアの市場を海の航路に結んだ水系。そのデルタが地域の交易と、商人と物資の往来を支えた。 大陸部東南アジアを貫き、ヴェトナムのデルタに至るメコン川。港でも政体でもなく、河川の水系である。
89 ヴァレラ岬 ヴェトナム沿いのヨーロッパの航海で用いられた、目立つ沿岸の目印。市場としてではなく、針路を定めるうえで重要であった。 ヴェトナム中南部沿岸のヴァレラ岬(Mũi Đại Lãnh/Mũi Điện)。伝統的にフーイエンに置かれる。
90 ブルネイ ボルネオ、中国、フィリピン、香料の世界を結ぶ航路上のスルタン国であり、商業の中心。 ボルネオ島北部の主権国家ブルネイ・ダルサラーム。河川を中心とした歴史上の都の一帯は、バンダルスリブガワンとカンポン・アイルに結びつけられる。
91 ボルネオ 林産物その他の物産を多くの港から供給した、大きな産地であり交易の地域。一つの国家、一つの港として扱うべきではない。 インドネシア、マレーシア、ブルネイに分かたれたボルネオ島。「カリマンタン」は通例インドネシア側の部分を指す。
92 テルナテ 丁子を産する島であり、ポルトガル・スペイン・オランダの競合の中心となったスルタン国。ザビエルのモルッカ巡歴は、日本以前のアジア経験の一部である。 インドネシア、北マルク州のテルナテ。いまも生きた島の都市で、砦の遺構が残り、スルタン家の伝統も続く。
93 ティドレ 丁子の島でありスルタン国。テルナテの敵手に対してスペインと結び、マニラとモルッカを軸とする商業・軍事の世界の一部をなした。 インドネシア、北マルク州のティドレ島。ティドレ諸島市に属する。
94 モルッカ諸島(香料諸島) 丁子、ナツメグ、メースの産地であり、それゆえヨーロッパの争奪の的となった。日本人の傭兵と商人も、香料貿易をめぐるより広い経済に加わった。 インドネシアのマルクおよび北マルク。「モルッカ」は歴史的・地理的な呼称として残る。香料はそれぞれ異なる島に偏在していた。
95 バンダ諸島 ナツメグとメースの歴史上の主産地。1621年のオランダによる征服は暴力的な独占を敷き、その軍勢には日本人の兵も加わっていた。 インドネシア、マルク州のバンダ諸島。砦とナツメグ栽培の景観を持つ有人の島々である。
96 マカッサル(セレベス/スラウェシ) マカッサルはゴワ・タロ政権下の大きな独立の中継港であり、ポルトガル商人をかくまい、東インドネシアの物産をより広いアジア市場と結んだ。 インドネシア、南スラウェシ州のマカッサルセレベスは島であるスラウェシの古いヨーロッパ側の呼称であり、マカッサルはその島の都市である。
97 ティモール ポルトガルとアジアの網の目を通じて中国その他の市場へ運ばれた白檀の産地。 東ティモールインドネシアの西ティモールに分かたれたティモール島。島は残るが、東ティモールと同じ範囲ではない。
98 ソロール ティモールの白檀貿易への足がかりを支えたポルトガル・ドミニコ会の宣教拠点であり要塞。十七世紀初頭にオランダと争われた。 インドネシア、東ヌサ・トゥンガラ州のソロール島ロハヨンの砦跡が拠点の遺構を伝える。
99 ララントゥカ(Larantuca) ポルトガルに結びついた居留地でありカトリックの中心。商人と宣教師がソロールから移るにつれて重みを増した。 インドネシア、東ヌサ・トゥンガラ州のフローレス島東端にあるララントゥカ。生きた町であり、ソロール島の集落ではない。
100 ビマ 東インドネシアの交易に結ばれた地域の政体であり港。馬や農産物などを扱った。南蛮との結びつきは、より広い商業の網を通じた間接のものである。 インドネシア、西ヌサ・トゥンガラ州スンバワ島東部の市であり、その周辺の歴史的な地域。スンバワ島上の一地であって、それ自体が島ではない。
101 バリ ジャワと東部の島々を結ぶ航路のなかの、島の産地であり交易の渡航先。文脈のみ。 日本に関わる個別の出来事は記録されていない。 インドネシアのバリ島・バリ州。州は近隣の島々も含む。
102 ケダ 錫、食糧、半島を横断する商いを扱ったスルタン国であり海の出口で、海峡の交易体系に組み込まれていた。 マレーシア、ケダ州。歴史上の政体とその複数の港を、現代の一つの港に還元すべきではない。クアラ・ケダはいまも沿岸の港である。
103 ペラ マラッカ海峡の商いに錫を供給したスルタン国。その重みは、ヨーロッパとアジアの交易を支えた物産の網の目にあった。 マレーシア、ペラ州。現在の州であるとともに、河川流域であり歴史上の政体でもあって、単一の港ではない。
104 トラン マレー半島西岸の出口で、アンダマン海の商いと、半島を横断する陸路に結ばれていた。 タイ南部、トラン県。歴史上の河口の諸港と、現在の内陸の都市トランとは同じ場所ではない。
105 ウジャン・サラン(Ujang Selang) ウジュン・サラン、すなわちジャンク・セイロンの推定上の綴りの異形であり、プーケットを指す名である。その錫と戦略上の位置が海外の商人を引き寄せた。 タイ、プーケット島。島のどの港を指すかは特定されていない。
106 シンガポール海峡 マラッカ海峡と南シナ海を結ぶ要衝の水道で、ポルトガル、オランダ、アジアの船が争った。 シンガポール、マレー半島南部、インドネシアのリアウ諸島に挟まれたシンガポール海峡。いまも主要な航路である。
107 黄金半島(Golden Chersonese) ヨーロッパの地図学と著述がマレー半島に転用した、古典に由来する地理上の呼称。その意味は、ヨーロッパ人がアジアの地理をどう理解したかにある。 おおむねマレー半島。現在は主としてタイ南部とマレーシア半島部に分かたれる。消えた集落ではなく、廃れた地図上の呼称である。
108 パンガシナン 沿岸の商いとスペインの伸張に結ばれたルソン島西部の地域。文脈のみ。 日本人の居留や接触が確認されているわけではない。 フィリピン、ルソン島のパンガシナン州。歴史上の範囲と現在の境界は、必ずしも一致しない。
109 カガヤン ルソン島北部の交易と辺境の地域。1582年、しばしば日本人を含むと記される海の襲撃者とスペインとの衝突は、日本とフィリピンの海上の出会いの歴史に属する。 フィリピン、ルソン島北部のカガヤン州とカガヤン渓谷。ミンダナオ島のカガヤン・デ・オロではない。
110 ディラオ スペイン領マニラの外にあった日本人町。商人、改宗者、キリシタンの亡命者が住み、1614年に高山右近が着いた共同体である。 おおむねマニラのパコに比定され、プラサ・ディラオが日本人の存在を記念する。歴史上の集落の範囲と現在の広場とが厳密に一致するとは限らない。
111 ミンドロ(Ma-I) ミンドロはフィリピンの海上交易の世界に属した。Ma-iは中国側の記録に由来するはるかに古い名であり、留保なしにミンドロと同一視することはできない。 東ミンドロ州と西ミンドロ州に分かれるフィリピン、ミンドロ島。歴史上のMa-iの比定には議論があり、ミンドロのほかラグナ州のバイ(Bay)なども候補に挙がる。
112 テナセリム ベンガル湾の商いを陸路でシャムに結んだ港であり半島の地域で、ポルトガルその他のアジアの交易網に関わる。 ミャンマー南部のタニンダーリ。この名は広い地域を指すことも、歴史上の河畔の町タニンダーリ/テナセリムを指すこともあり、ミェイクだけの別称ではない。
113 マルタバン 下ビルマの重要な港で、とりわけアジアの海運全体で用いられた大型の施釉貯蔵壺の交易で知られる。 モーラミャインの対岸にあるミャンマー、モン州のモッタマ。かつての国際港としての地位はおおむね失われた。
114 メルギー 半島を横断する路によってシャムと結ばれ、ヨーロッパとアジアの商人が用いたベンガル湾の港。 ミャンマー、タニンダーリ地方域のミェイク。いまも港である。「メルギー」は古い英語の記録や、沖合の諸島の名として広く使われ続けている。
115 コスミン(Cosmin) ラルフ・フィッチのものを含む、十六・十七世紀のヨーロッパによるエーヤワディー川西部デルタの記録に名の出る港で、より広いベンガル湾の網の目の一部である。 推定:エーヤワディー地方域のパテイン(旧バセイン)、あるいはその近くの港。デルタは動き、古い記述は大まかであるため、この比定は通説ではあるが確実ではない。

V. 南アジア、中東、アフリカ

116番から135番まで。これらの地は、より広いポルトガルのアジア体制に物資を供給し、あるいはこれを支えた。日本との結びつきは、たいてい直接の航海ではなくゴア、マラッカ、マカオを経てのものであり、西へ行くほど、その結びつきは間接になる。

番号 史料上の名 なぜ記録に残るか いまはどこか
116 ゴア ポルトガル領アジアの行政と教会の中心で、宣教師を養成して送り出し、日本の宣教を支えた。ザビエルの遺体は没後ここへ運ばれた。 当時の市街はインド、ゴア州のオールド・ゴア(ヴェーリャ・ゴア)であり、世界遺産である。主要な聖堂群が残る。現在の州都パナジは別の市街である。
117 コーチン マラバル海岸におけるポルトガルの初期の拠点であり胡椒交易の中心で、日本へ向かう人と物が通った海の体制を支えた。 インド、ケーララ州のコチフォート・コチとマッタンチェリーが主要な歴史地区である。
118 ディウ グジャラートとその豊かな交易経済への入口を扼したポルトガルの要塞拠点。日本との結びつきは、エスタード・ダ・インディアを介した間接のものであった。 インドのディウの町と島。ダードラー・ナガル・ハヴェーリー・ダマン・ディウ連邦直轄領に属する。ポルトガルの要塞は残る。この領域はグジャラート州に隣接するが、州外である。
119 チャウル 西インドの商業と織物供給におけるポルトガルの要塞港で、アジア交易を支え、その物資を整えた体制の一部であった。 インド、マハーラーシュトラ州のチャウルとレヴダンダ。ポルトガルの下町の防御施設は主としてレヴダンダにあり、歴史上のチャウルには内陸の別の集落も含まれていた。
120 バセイン ボンベイの北にあったポルトガルの領域的・宗教的な中心で、ポルトガル領アジアの人員・歳入・海運の基盤の一部をなした。 ムンバイの北にあるインド、マハーラーシュトラ州のヴァサイ。広大なヴァサイ砦の遺構が残る。ビルマのバセイン、いまのパテインとは別である。
121 ナガパティナム(Negapatam) コロマンデル海岸のポルトガルの交易居留地で、織物と私商人のつながりが東南アジアと結びつけていた。 インド、タミル・ナードゥ州のナガパティナム。いまも沿岸の町であり港である。「Negapatam」は古いヨーロッパ側の表記である。
122 サン・トメ・デ・メリアポール(マイラプール) 聖トマスの墓に結びつくポルトガルのキリスト教徒と交易の居留地で、コロマンデル海岸の宣教と商業の網の目の一部であった。 インド、タミル・ナードゥ州チェンナイのサントメとマイラポール。現在の大聖堂は、当初のポルトガルの教会より後のものである。
123 プリカット 十七世紀初頭のオランダのコロマンデル本部。ここで買われた織物が、日本に向かう回路を含むアジア全域のオランダ交易を支えた。 インド、チェンナイの北にあるパザヴェルカドゥ(プリカット)。町はプリカット潟のほとりに残り、オランダの遺構を伝える。潟はタミル・ナードゥ州とアーンドラ・プラデーシュ州の境をまたぐ。
124 トゥティコリン パラヴァのキリスト教徒共同体と、ザビエルの初期の宣教に結びつく真珠採取の港。日本の宣教に先立つ、インドのキリスト教の基盤の一部である。 インド、タミル・ナードゥ州のトゥートゥックディ。大きな港湾都市である。「Tuticorin」は英語でなお広く使われている。
125 マナール(マンナール) ポルトガルの砦であり宣教拠点で、漁業と、インドとスリランカのあいだの水道の統制に関わる。 スリランカのマンナールの町とマンナール島。砦は廃墟として残り、目に見える構造にはのちのオランダの工事も含まれる。
126 マドゥライ 1606年以降のロベルト・デ・ノビリのイエズス会宣教の中心であり、それゆえ日本をめぐる議論と並行して進んだ、キリスト教をアジア社会に適応させる是非の議論にとって重要である。 インド、タミル・ナードゥ州のマドゥライ。いまも生きた寺院都市である。その南蛮との関わりは比較と制度のうえのものであって、海のそれではない。
127 カルカッタ/ベンガル(フーグリー、ピプリ、オリッサ) この時代に属するのはベンガルとオディシャの古い諸港であり、イギリスの商業中心としてのカルカッタの興隆は後年のことで、ここでは時代錯誤である。フーグリーは1632年にムガルの軍が奪うまでポルトガルの居留地であり、ピプリもまた初期のヨーロッパの交易の出口であった。 カルカッタは現在のインド、西ベンガル州コルカタフーグリー西ベンガル州のフーグリー・チンスラ一帯ベンガルは主としてバングラデシュとインドに分かたれた歴史上の地域。オリッサは現在のインド、オディシャ。ここでいうピプリは、プリー近郊のよく知られた工芸の町ではなく、バラソールとスバルナレカ川の沿岸一帯にあった古い港であり、その正確な位置は原史料なしには未詳である。
128 グジャラート/カンベイ 織物と手工業の大産地で、その物産はポルトガルとアジアの網の目を通じて東南アジアとその先へ流れた。 インド、グジャラート州カンベイは現在のカンバートで、町の名であり湾の名でもある。古い港は堆積によってその重みを失った。地域と町は別である。
129 マラバル海岸 胡椒を産する南西インドの海岸で、ポルトガルのアジア商業の初期の礎となり、日本へ至る長い航路を支えた。 歴史上のマラバル海岸。主としてケーララの海岸と、これに接する南西インドにあたる。その範囲は論者によって異なり、現代の一つの行政単位ではない。
130 コロマンデル海岸 織物を産する南東インドの海岸。布の輸出は、ポルトガル、オランダ、アジアの商人がひとしく担ったアジア域内の交換の中心にあった。 インドの南東海岸、とりわけタミル・ナードゥと、これに接するアーンドラ・プラデーシュ。州でも港でもなく、地理上の地域である。
131 スリランカ(セイロン) シナモンの産地であり、ポルトガルの征服と宣教、そしてのちのオランダの伸張の舞台。より東の交易を支えた商業体制に結ばれていた。 主権を持つ島嶼国家スリランカ。「セイロン」は1972年に国の英語の正式名としては用いられなくなった。
132 モルディブ諸島 インド洋の交換と海運で用いられた子安貝とコイアの産地。日本との結びつきは間接であり、日本の交易拠点があったことを含意しない。 独立した島嶼国家モルディブ
133 ホルムズ(オルムズ) ペルシア湾の交易を扼した豊かな中継港でありポルトガルの要塞拠点。1622年、イギリス海軍の支援を得たペルシアの軍が奪うまで続いた。 バンダレ・アッバース近くのイラン、ホルムズ島。ポルトガルの要塞の遺構が残る。この島の港は、本土の旧ホルムズとも、海峡そのものとも別である。
134 ドファール(Defar) ポルトガルの航路と記録に現れるアラビアの沿岸の港であり地域で、乳香とインド洋の商いに結びつく。日本との関わりは文脈上のものである。 広くはオマーン南部のドファール。歴史上の港の名はサラーラ近くのザファール(Ẓafār/al-Balīd)に結びつくが、どの港を指したのかを定めるには原文が要る。ドファールは今日、はるかに広い州の名でもある。
135 モザンビーク ポルトガルとインドを結ぶ航路上の要塞化された寄港地で、アジアへ向かう船と乗客と物資がここで整備と補給を受けられた。 とりわけモザンビーク、ナンプラ州のモザンビーク島であり、世界遺産である。有人の島、歴史的な町並み、要塞が残る。国名はのちにこの地から取られた。

VI. ヨーロッパとアメリカ大陸

136番から158番まで。航路の西の端である。船が発した港、使節が迎えられた宮廷、ヨーロッパが日本について知ったことを刷った大学町、そして生糸の代価となったアメリカの銀。

番号 史料上の名 なぜ記録に残るか いまはどこか
136 リスボン インドへ、さらにアジアへ向かうポルトガルの航海の出発地であり、行政の中心。フロイスの生地であり、天正の使節を迎えた大きな地でもあった。 ポルトガルの首都リスボア(リスボン)。市街は残るが、1755年の地震とその後の再建が、南蛮時代の中心部の多くを作り変えた。
137 セビリア(サンルーカル・デ・バラメダ/コリア・デル・リオ) セビリアは通商院(カサ・デ・コントラタシオン)を通じてスペインの大西洋交易を統制した。サンルーカルはグアダルキビール川の海への門であった。コリア・デル・リオ支倉の慶長遣欧使節の一行を迎え入れた。 スペイン、アンダルシアに現存する三つの別々の土地である。セビリア、カディス県のサンルーカル・デ・バラメダ、そしてセビリア県のコリア・デル・リオ。一つの都市の別称ではない。
138 マドリード 日本の使節が庇護と、外交あるいは通商の取り決めを求めた王宮の地。天正と慶長の両使節は、ここでハプスブルク家の王と会った。 スペインの首都マドリード
139 ローマ 1585年の天正使節と、1615年の支倉の慶長使節が目指した教皇の地。謁見と儀礼は、日本のキリシタン宣教をヨーロッパ中に知らしめた。 イタリア、ローマ。教皇庁の諸機関はヴァチカン市国を中心とし、それはいま市内にある別個の主権国家である。
140 アルカラ・デ・エナレス 天正の使節が訪れた大学町で、ヨーロッパの学問とキリスト教の諸制度に触れた経験の一部である。 スペイン、マドリード州のアルカラ・デ・エナレス。大学と歴史的市街が現存する。
141 コインブラ イエズス会の教育と人材募集の重要な中心であり、天正の使節の立ち寄り先。そのコレジオがポルトガルの学問をアジアの宣教に結びつけた。 ポルトガル、コインブラ。大学と歴史的な宗教建築は残るが、その用途は変わっている。
142 エヴォラ イエズス会の大学都市であり、1598年の日本と中国からの書簡集を含む、宣教文献の出版の一大拠点。この種の書物が、ヨーロッパの日本認識を形づくった。 ポルトガル、エヴォラ。市街と歴史的な大学の建物は残る。
143 トーレス・ヴェドラス 文脈のみ。 所在の確かなポルトガルの町だが、日本との関わりにおける固有の役割を示す人物も、訪問も、出来事もない。 ポルトガル、トーレス・ヴェドラス。リスボンの北にある現存の町であり自治体である。
144 ポルトガルの町と都市 二十二の町がまとめて名を挙げられている。海事や宮廷との明らかな結びつきを持つものもあるが、それ以外については、記録は固有の南蛮の挿話を立証しない。下の表を参照のこと。 二十二すべてがポルトガルに現存し、おおむね同じ名である。
145 セウタ 1415年以来のポルトガルの領有地で、ポルトガルの海外進出と、帝国を担う人員の軍歴の背景として重要である。日本との直接の接触に先立つ。 モロッコが領有を主張する、北アフリカ沿岸のスペインの自治都市であるセウタ。もはやポルトガル領ではない。
146 アルカセル・キビール 国王セバスティアンが没した1578年の戦いの地。続く王統の危機が1580年のイベリア連合を招き、ポルトガルのアジア交易が営まれる王権のかたちを変えた。 モロッコのケサル・エル・ケビール。戦場は通例ワジ・アル・マハーズィンに結びつけられる。町は残る。戦いの名はポルトガル側のものである。
147 カディス ヌエバ・エスパーニャ、ヨーロッパ、太平洋の交易を結ぶスペイン帝国の海運体制の大西洋側の港。のちの優位を過去へ投影すべきではない。通商院がここへ移ったのは1717年になってからである。 スペイン、アンダルシアのカディス。現存する港湾都市である。
148 コルドバ、パレンシア、メディナ・デル・カンポ 文脈のみ。 手がかりとなる出来事は記録されていない。コルドバとパレンシアは宗教と都市の中心であり、メディナ・デル・カンポは重要な商業・金融の町であったが、そうした一般的な役割は、日本の使節が訪れたことを証明しない。 アンダルシアのコルドバカスティーリャ・イ・レオンのパレンシア、そしてカスティーリャ・イ・レオン、バリャドリッド県のメディナ・デル・カンポ──スペインに現存する三つの別々の土地である。
149 ジェノヴァ その商人と金融業者がイベリアの国際商業を支えた海洋共和国。その意味は、ヨーロッパの金融と海事の環境にある。 イタリア、リグーリア州のジェノヴァ。市街は残るが、独立の共和国は残らない。
150 フランドル その織物、美術品、奢侈品がイベリアの網の目を通じて流通した、生産と商業の地域。史料にいう「フランドルの」は、必ずしも製作地の町を特定しない。 現在のベルギー、フランス、オランダにまたがる歴史上のフランドル。現在のベルギーのフランデレンはより広い行政区域であり、歴史上の伯領と厳密に同じではない。
151 アムステルダム/デルフト/ロッテルダム/エンクハイゼン 日本を含むオランダのアジア商業に出資し、これを組織したオランダ東インド会社の、六つの支部都市のうちの四つ。ここに挙がらない二つはホールンとミデルブルフである。 いずれもオランダに現存する都市、アムステルダム、デルフト、ロッテルダム、エンクハイゼン。会社の施設は歴史上のものであり、稼働する事務所ではない。
152 ロンドン/オックスフォード ロンドンは、1613年から1623年まで平戸で営業したイギリス東インド会社の本部であった。オックスフォードは、アジアの器物と文献のヨーロッパでの受容に関わる収集と学問の中心であったが、南蛮時代の個別の出来事は記録されていない。 イギリス、イングランドのロンドンとオックスフォード。現存する別々の都市である。
153 カレー 文脈のみ。 ヨーロッパの旅行と通信の網の目に属する海峡の港だが、日本の使節の訪問も商業上の出来事も確認されていない。 フランス北部のカレー。いまも海峡の港である。
154 アカプルコ マニラ・ガレオンの太平洋側の終点であり、1614年の支倉使節の上陸地。アジアの物産と日本の旅人をヌエバ・エスパーニャに結びつけた。 メキシコ、ゲレロ州のアカプルコ・デ・フアレス。歴史ある湾はいまも港である。
155 メキシコシティ/ヌエバ・エスパーニャ メキシコシティは支倉の一行が訪れた副王領の首府であり、ヌエバ・エスパーニャは銀と、アカプルコと大西洋を結ぶ陸の橋を供給した。 メキシコのメキシコシティはいまも首都である。ヌエバ・エスパーニャは廃された副王領で、現在のメキシコよりはるかに広く、市の別称ではない。
156 ベラクルス ヌエバ・エスパーニャの大西洋側の玄関口で、ヨーロッパへ向かう支倉使節と、アメリカの銀をスペイン王室へ運ぶ船が用いた。 メキシコ、ベラクルス。現存する都市であり港である。港は幾度か移されたため、古い「ベラクルス」への言及が常に同じ場所を指すとは限らない。
157 リマ/ペルー リマは副王領の首府であり、ペルー副王領はアジア交易を支えた世界経済における大きな銀の供給源であった。主要な産地であるポトシはこの副王領にあり、現在はボリビアに属する。 ペルーの首都リマは現存する。ペルー副王領は廃され、今日の国をはるかに越えて変動する領域を占めていた。
158 パラグアイ 十七世紀初頭からのそこでのイエズス会の布教は、世界に広がるイエズス会のなかの並行する事例である。日本との結びつきは制度上・比較上のものであって、直接の交易路の証拠ではない。 パラグアイはいまも国家だが、歴史上のイエズス会パラグアイ管区は、現在のアルゼンチン、ブラジルその他の近隣国にまで及んでいた。布教所の遺構はいくつもの現代の国に残る。

144番の全容──ポルトガルの町々

共通の背景は、ポルトガルの海事・教会・宮廷の網の目である。より狭い結びつきを確実に立証できないところでは、項目はそう述べるにとどめ、受けたことがないかもしれない使節の訪問をその町に割り当てることはしない。これらの土地はいずれも人が住み続けている。「同じ名」とは名の連続であって、十六世紀の町並みの存続ではない。

地名 南蛮世界との関わり いまはどこか
ヴィアナ・ド・カステロ ポルトガルの海外経済のなかの海事と造船の中心。日本に関わる個別の出来事は記録されていない。 ポルトガル北部のヴィアナ・ド・カステロ。当時は一般にヴィアナ・ダ・フォズ・ド・リマと呼ばれた。「ド・カステロ」は後年の呼称である。
バルセロス 未検証。 ポルトガル北部の町で、出来事よりも、記録に現れるある人物の履歴に属するのかもしれない。 ポルトガル北部のバルセロス。同じ地名である。
ヴィラ・ド・コンデ ポルトガルの海外進出を支えた造船と海の共同体。日本との結びつきは海事の網の目を通じたものである。 ポルトの北、大西洋岸のヴィラ・ド・コンデ
ポルト ポルトガルの海外交易を支えた国内経済に加わった、商業と海事の都市。 ポルトガル北部のポルト。「Oporto」は古い英語の形である。
アヴェイロ 港であり、製塩と海の共同体で、ポルトガルのより広い海運経済に関わる。日本との個別の結びつきは記録されていない。 ポルトガル中西部のアヴェイロ。潟と港の入口は大きく変わっている。
コヴィリャン 未検証。 内陸の製造業の町であり、南蛮の海運の港として描くべきではない。 ポルトガル中東部のコヴィリャン
カステロ・ブランコ 未検証。 日本と直接に結びつく人物も、施設も、出来事もない。 ポルトガル中東部のカステロ・ブランコ
レイリア 未検証。 ポルトガルの王権と教会の地理の一部だが、南蛮の直接の出来事は特定されていない。 ポルトガル中部のレイリア
トマール キリスト騎士団の本拠であり、ポルトガルの海外進出の初期の組織と庇護に深く結びつく。制度上の背景である。 ポルトガル中部のトマール。キリスト教修道院が残る。
ポルタレグレ 未検証。 教会と地域の中心だが、記録に現れる固有の理由は、その背後にある史料なしには説明できない。 ポルトガル、アルト・アレンテージョのポルタレグレ
サンタレン テージョ川に臨む重要な町で、ポルトガルの王権と宗教の地理のうちにある。日本に関わる直接の挿話は確認されていない。 ポルトガルのサンタレン
サルヴァテラ・デ・マゴス ポルトガルの宮廷の地理における王の離宮の地。典拠のある旅程なしに、日本の使節の訪問を前提とすべきではない。 ポルトガル、テージョ川流域のサルヴァテラ・デ・マゴス
シントラ 王家と貴族の離宮の中心。関わりは宮廷または人物の履歴にありうるが、明確な出会いは記録されていない。 ポルトガル、リスボンの西のシントラ
ヴィラ・フランカ・デ・シーラ リスボンへ至る路上のテージョ川の町で、旅程の一地でありうるが、南蛮の具体的な出来事は確認されていない。 ポルトガルのヴィラ・フランカ・デ・シーラ
カスカイス リスボンへの海からの接近を扼した港で、海外の海運の往来と保護に関わる。 ポルトガル、テージョ川の大西洋側の入口にあるカスカイス
ヴィラ・ヴィソーザ ブラガンサ公爵家の本拠で、天正の使節がポルトガル巡歴のさなかに訪れた。日本からの客人を貴族が迎えた一例である。 ポルトガル、アレンテージョのヴィラ・ヴィソーザ。公爵の宮殿が残る。
セトゥーバル ポルトガルの海運・商業の経済のなかの、塩を輸出する大西洋の港。日本との明確な出会いは記録されていない。 ポルトガル、サド川河口のセトゥーバル
モウラ 未検証。 人物の履歴か旅程に関わるのかもしれないが、正確な結びつきは復元できない。 ポルトガル、アレンテージョのモウラ
ベージャ 未検証。 重要な地域と教会の町だが、日本との直接の接触は特定されていない。 ポルトガル、アレンテージョのベージャ
ポルティマン アルガルヴェの港であり海の共同体で、ポルトガルのより広い海事の環境の一部をなす。 ポルトガル、アルガルヴェのポルティマン。歴史上はヴィラ・ノヴァ・デ・ポルティマン
ラゴス 大西洋岸アフリカへのポルトガルの進出の初期段階で重要であり、やがて日本に達する海の体制の背景をなす。 ポルトガル、アルガルヴェのラゴス。ナイジェリアのラゴスとは別である。
ファロ アルガルヴェの港であり教会の中心。南蛮の記録におけるその固有の役割は未検証である。 ポルトガル、アルガルヴェのファロ

紛らわしい地名

古い綴りは、耳で聞いた音の近似である。日本語も中国語も読めない者が書き留め、その地を踏んだことのない者が後から写した。その多くは、実在する現代の地名の近くに着地する──ただし場所は違う。ここに挙げるのは、最も厄介なものである。番号は各項目の全文へ戻す。

手元の綴り こう読む
Takashima(高島)(15) 度島(たくしま)。平戸の北にある島で、1563年から1564年にかけてフアン・フェルナンデスのもとでフロイスが日本語を学んだ地である。「高島」と称するいくつもの島のいずれでもない。
Sendai(仙台/川内)(13) 薩摩の文脈であれば、鹿児島県の薩摩川内(川内)である。伊達政宗の城下町である宮城の仙台は、1,200キロ離れた別の都市であり、慶長遣欧使節に属する。
Yatsuhiro(23) 八代(やつしろ)、熊本県。古い、あるいは不正確な音写であって、別の土地ではない。
Udo(24) 宇土(うと)、熊本県。小西行長の城下町である。
Nagoya(22) 秀吉の朝鮮出兵の本営については、佐賀県唐津市の肥前名護屋である。愛知の名古屋ではない。
Cabexuma(16) おそらく野母半島沖の樺島であって、五島列島の同名の島ではない。古い記録はこれを平坦と呼ぶが、現在の島とは符合しにくい。
Fukae(21) 長崎湾の文脈では、島原半島の町である深江ではなく、初期の長崎を指す。
Amakubo(27) 歴史上の大村領内のどこか。未詳である。つくばの天久保ではない。
Cochinchina(85) 中部ヴェトナムにあった阮氏の治める南の政権──港ではなく地域である。日本人町のある港はホイアン(フェイフォとも)であり、トゥーランダナンという別の港である。三つの名は互換ではなく、コーチシナはのちに、さらに南を指すフランス植民地期の狭い意味を帯びた。
Macassar(96) スラウェシ島上の都市、マカッサルである。「セレベス」は島の古い名であって、都市の名ではない。
Larantuca(99) フローレス島東端のララントゥカである。ソロールの役割を引き継いだが、ソロール島上の集落ではない。
Bima(100) スンバワ島東部の市であり地域である。それ自体が島ではなく、スラウェシ島上でもない。
Cagayan(109) 1582年の衝突については、ルソン島北部のカガヤン州である。ミンダナオ島のカガヤン・デ・オロではない。
Bassein(120) インドの文脈では、ムンバイの北のヴァサイである。ビルマの文脈では、バセインはエーヤワディー・デルタのパテインであり、これは115番にあたる。
Calcutta(127) この時代には時代錯誤である。ここで問題になるベンガルの港は、1632年までポルトガル領であったフーグリーと、ピプリである。コルカタの商業的な興隆は後年のことである。
Pingxiang(74) ヴェトナム国境に臨む広西の憑祥である。江西の萍郷ではない。
Lampacau(66) 誤って名づけられた島ではなく、消えた島である。堆積によって本土と一体化し、珠海市金湾区の一帯に置かれる。
Ma-i(111) 単純にミンドロではない。比定には議論があり、ラグナ州のバイも候補の一つである。

四つの名は未詳のままであり、そのままにしてある。 Yukishima(17)、平戸のどこか近くにあったサン・セバスティアン号の錨地。Amakubo(27)、画家マンショ・オタオの生地で、大村領のどこか。Tone(28)、同じ領内のイエズス会士の避難所。そしてAma Bay(36)、日本南部の錨地とのみ記される。いずれについても、もっともらしい現代の地名は存在するが、それを主張しないままにしてある。似た名は比定ではないからである。

さらに三つは暫定的に比定されているにすぎず、 原文の一節があれば決着する。上島(20)──検証を要するのは島ではなく、ガスパル・ヴィレラとの結びつきである。Cabexuma(16)──航海の記述が、最も有力な島と符合しにくい。そしてピプリ(127)──二つの候補となる港が同じ名を負う。コスミン(115)とウジャン・サラン(105)は、おそらく正しいが一度も証明されたことのない、通説的な比定に立っている。

何があれば決着するか。 未詳の項目にとって、決め手となる証拠はほとんど常に同じである。原記録の書名、版、頁。そしてその記録自身の綴りか、その背後にある漢字である。ここで新たな研究を要するものは、ごくわずかしかない。要るのは、その一節である。

この総覧が主張しないこと

古い土地が存続しているとは主張しない。 同じ名を負う現代の都市が、埋め立てられた海際に建っていることも、取り壊された城のまわりに広がっていることも、史料の描く港から何キロも離れていることもある。長崎の初期の海際は埋め立ての下にあり、出島はもはや島ではなく、聚楽第と安土と北ノ庄は遺跡であり、外浦町は現行の住所ではない。名の連続は、連続のなかで最も弱いかたちである。

推測を事実に格上げしない。 記録が名だけを与えてそれ以上を与えないところでは、項目は未詳と述べてそこで止まる。古い名が現代の地図にないことは、その集落が消えた証拠ではない。吸収されたか、改称されたか、そもそも誤って書き留められたか──その可能性も、同じだけある。

記録が支えない日本との結びつきを主張しない。 ここに挙げた地のおよそ五分の一は、そこで日本に関わる何かが起きたからではなく、ある史料がその名を並べているからここにある。そうした項目は文脈のみと記し、そのまま残した。消してしまえば記録のかたちが見えなくなり、挿話を作り出すのはそれよりなお悪いからである。ポルトガル内陸の毛織物の町は、どの一覧に載っていようと南蛮の港ではない。

これは探すための道具であって、歴史ではない。 各項目は一行であって、論ではない。サイトがその歴史を詳しく書いているところでは、項目がそこへリンクする。主要地名の事典は、ここに挙げた地のうち最も重要な二十に、しかるべき記述と座標と航路図上の位置を与え、南蛮貿易の手引きは、それらを結ぶ商いを説く。本頁は、名から正しい場所へ読者を運び、そののちは道を空けるために在る。