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枯木に咲いた花

1637年、島原の蜂起を導いた「稀なる若人」の予言

1637年の晩秋、島原半島のある百姓家の庭で、とうに枯れていた桜の木に、赤い藤の花が咲いた。

この庭の持ち主は Ōe Gen'emon という男でした。1630年代の九州で実に多くの男たちがそうであった意味において、彼は百姓でした。すなわち、敗れたキリシタン大名の家臣であり、三十七年前に主君の首とともに禄を失い、以来何十年ものあいだ、わずかな畑を耕しながら世が変わるのを待ってきた男です。同じような境遇の男が五人おり、その冬、在郷に何が流れているかを彼らは知っていました。

流れていたのは一つの予言でした。1614年の追放で国外へ出された日本人のイエズス会士に帰せられ、ある伝えでは Shōtenren、別の伝えでは Marco Ferraro と呼ばれ、ヨーロッパ側の史料ではむしろ Mancio Mareos と結びつけられています。誰が語ったのかについて記録が一致しないこと自体が、それがどのような文書であったかを示す最初の手がかりです。村々に伝わった形では、本文はこう続きます。

「今より五々の年を経たるのち、日本に一人の稀なる若人が現れるであろう。その者は学ばずして、あらゆる学を修めるであろう。これは必ず成るであろう。そのとき雲は明るく輝くであろう、東に沿い、西に沿うて。枯木より藤の花が咲くであろう。人みな頭に十字の印を戴き、白き旗が海に、川に、山に、野に翻るであろう。そのとき、イエズスを崇める時が到来するであろう。」

五々は二十五です。1614年の追放から二十五年を数えれば1639年となり、1637年にはなりません。この食い違いは、いまなお解けていません。一揆の側は、徳川の最初の禁教令が出た1612年から数えたのかもしれず、数え年のように数えたのかもしれず、あるいは誰も書き留めなかった土地の出来事から数えたのかもしれません。この計算が示すのは、見かけとは逆のことです。予言が出来事を動かしていたのではなく、予言のほうが出来事に合わせて仕立てられていたのです。

その冬は異常なほど乾いており、半島の夕空はたびたび鮮やかな深紅の雲に覆われました。東に沿い、西に沿うてです。桜は晩秋に時ならぬ花を咲かせました。それを天の署名として読み取る用意の、すっかり整った在郷においてでした。

そして、予言が成就することで最も多くを得る五人のうちの一人の庭で、枯木に赤い藤が咲いたのです。

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四郎という名

天草四郎とは誰か──益田時貞、1621年ごろの生まれ

その稀なる若人は、益田時貞という名の少年において見いだされた、あるいは仕立て上げられました。

これが記録に残る出生時の名であり、史料が争わない彼の身元の要素は、ほぼこれだけです。彼は益田四郎太夫とも呼ばれ、人をその土地に結びつける日本のやり方で逆さに並べれば、天草四郎となります。ヨーロッパ人は彼をジェロニモ天草と呼びました。四郎とは、単に四番目の男子という意味です。燃える半島じゅうで叫ばれ、三世紀ぶんの演劇に刻み込まれることになるその名は、もとをただせば、忙しい家が付けたまま付け替えるのを忘れてしまう類の、生まれ順の符牒にすぎませんでした。

生まれたのは1620年代の初め、おそらく1621年か1622年です。どこで生まれたかについては、三通りの説が争っています。第一の候補は天草の大矢野島で、これを支えるのは最良の種類の証拠、すなわち何かを証明する意図なしに生み出された証拠です。一揆の旗は彼を「日本の大将、大矢野四郎」と呼んでおり、人は自分たちの旗の上で大将の出身の島を取り違えたりはしません。第二は肥後、宇土半島の江部村で、母マルタの供述によるものです。第三は島原領の Kobara 村で、Tamamaru Korefusa Monogatari という、一世紀のちに、事を作り上げていた人々によって書かれた軍記によるものです。

この三つのうち二つは、汚染された史料です。一つは作り話です。もう一つは、息子の死ののち幕府の手中にあった女から引き出されたものであり、しかも拷問を詮議のありふれた道具として扱う法の文化のもとでのことでした。四郎の家族について自信たっぷりに語られていることの多くは、そこから来ています。

父は益田好次、通称を甚兵衛といい、洗礼盤の前ではペイトロ益田と呼ばれた人物で、肥後のキリシタン大名小西行長の家臣でした。行長は関ヶ原で敗れた側に付いた大名です。甚兵衛は宇土に移り住んで百姓となり、村の庄屋を務め、三十七年後の蜂起の取りまとめを助けました。四郎の母はマルタ渡辺、姉のレジーナは大矢野村の庄屋、渡辺小左衛門に嫁ぎ、妹のマリナはミカエル渡辺佐太郎に嫁ぎました。これらの名はいずれも洗礼名であり、それを持つことが二十三年にわたって死罪に当たる国においてのことでした。

対立する系譜は、いずれも同じ方向へ引いています。十八世紀の学者三浦梅園が引く地方の軍記は、武士の血筋をきっぱり退け、彼を Oyada 村の Shinbei という百姓の子だとしています。これを伝える史料自身が疑わしいと断る伝承は、彼を、1582年の天正遣欧使節でヨーロッパへ送られた四人の少年の一人、千々石ミゲルの子としました。異説はでたらめに生じたのではありません。そのそれぞれが、この一揆とはいかなる性質のものだったのか、という主張なのです。

神童の伝説は、1638年から遠ざかるほど誇張の度を増していきます。四歳で読み、三歳で読み書きし、二歳で語り、Yakko Tenkei Ki に至っては七つか八つで儒・仏・神の三道を修めた、というのです。母の供述のほうは、もっと味気なく、それゆえ有用です。彼女によれば、四郎が本格的に学問を始めたのは十一歳、十二歳からはしばしば長崎へ通い、そこでは小草履取りとして仕えていました。

伝説ではなく、しかもそのすべてより重いのは、彼が長崎でイエズス会士のもとに学び、流暢なポルトガル語といくらかのラテン語を身につけて戻ったという事実です。彼に帰せられる文書、すなわち包囲下の城中で発せられた法度書や、旗に記されたポルトガル語の銘は、彼がそれらの言語を読み書きできたのでなければ、彼の作として信じるに足りません。彼にはそれができました。首を刎ねられ地下へ追われた教会との連続性にこそ自らの正統性を賭けた運動において、ポルトガル語を扱える少年は、手に入るかぎり叙階された権威に最も近い存在でした。

記録から欠けているものが一つあり、その欠落は完全です。日本側にもヨーロッパ側にも、天草四郎がどのような姿をしていたかを記した同時代の史料は存在しません。背丈も、体つきも、顔も、です。

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戸口と竈にかかる税

松倉氏の島原の年貢──四万石の領地を十二万石と申告した検地

彼を生んだ国は、九州のその一角において、統治によって死に至らしめられつつありました。

島原は1615年に松倉重政の手に渡り、1630年にはその子勝家に受け継がれました。この領地の公称の石高は四万でした。一とは、大人一人が一年に食べるとされた米の量です。江戸で目を留めてもらいたかった重政は、十万石の大名にふさわしい割合で江戸城普請への献納を申し出ました。幕府はその言葉どおりに受け取り、彼の石高を六万に引き上げます。そこで重政は自ら検地を行い、半島の生産力は十二万石であると宣言しました。それを紙に書くという方法によって得られた数字でした。

年貢はその架空の数字に対して五割から六割の率で課され、実質としては、土地が産み出しうるものの三倍ほどを取り立てることになりました。その差を埋めるため、領は新たな税を考え出します。生まれることに、死ぬことに、戸に、窓に、棚に、竈に、そして畳に。島原の一家は、生まれたことに、死んだことに、そして家のなかで座ったことに税を課されたのです。払えない百姓は、子を売りました。

払うことができず、売る子もいなくなった百姓には、取り立ての責めが加えられました。蓑踊り、すなわち蓑踊がそれです。滞納した者に蓑を着せ、手を後ろ手に縛り、火を放つ。そうしておいて、火を付けた男たちは立ったまま笑っていました。勝家の代には、身重の女が裸にされ、凍った池に漬けられ、多くが寒さで命を落としました。煮られた者もいました。

海峡を隔てた向こう側では、仕組みは異なり、結果は同じでした。寺沢堅高は江戸に住み、ある記録が放埒きわまる悪行の渦と呼ぶ有様で借財を重ね、その入り用を賄うため、島々に置かれた彼の代官は1629年から、収奪とキリシタン弾圧とを撚り合わせた体制を敷きました。ついで1634年から、厳しい寒さと旱魃の続くなかで、作柄は繰り返し不作となります。百姓は草の根を食べました。徳川の国内海運への制限が、救荒の米を、飢えた海岸へ届かせませんでした。

村々が立てた計算を、史料はこう書き留めています。文書の山のなかで最も感傷から遠い一文です。じわじわと飢えて死ぬくらいなら、ひと思いに一度の死を死のう、と彼らは決めたのです。

蜂起そのものが始まったのは1637年12月17日でした。年貢の勤めから逃れた百姓の娘を代官が捕らえ、拷問して焼き印を押し、そのために配下の三十人ともども討たれたのです。

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五人の男たち

少年を総大将に担いだ小西旧臣の浪人五人

次に起きたことは、自然発生ではありませんでした。そしてそれを自然発生でなくした男たちは、こういう事態に備えて一世代を費やしてきていました。

彼らは浪人、すなわち主を持たない武士であり、その多くは小西行長に仕えていました。行長が死ぬと、家臣たちは禄もなく、身分もなく、新しい秩序が犯罪としつつあった信仰を抱えたまま、肥後と肥前の在郷へ散らされました。彼らは田を耕しました。村の家に婿入りし、嫁を迎えました。帳面の上では百姓となり、そして没収の及びようのない唯一の資産を保ち続けました。暴力を大きな規模で組織する術の知識です。

Shimabara Jitsuroku の系統の記録は五人の名を挙げています。Ōya no Matsueimon、森宗意軒、Yamada Zen'emon、そして例の藤が都合よく咲いた庭の主 Ōe Gen'emon、さらに Chisoku Zenzaemon です。森宗意軒は行長その人の側近であった男で、四郎の第一の指南役となり、城中を律する軍法を起草しました。のちの脚色された軍記は、この五人をそっくり別の顔ぶれに入れ替えています。名前というものがどれほどの重みしか持たないかが、そこからわかります。ヨーロッパ側の史料は、彼らの名を一人として挙げていません。少年に操る者たちがいたことは認めながら、それが誰であったかは言えないのです。

1638年の正月はじめ、天草の蜂起が富岡城で挫折し、機動の戦では勝てないことを一揆勢が悟ったのち、指導部は天草と有馬とのあいだの海峡に浮かぶ湯島に密かに集まりました。そこで事が決したことから、のちに談合島と呼ばれる島です。彼らは二つの蜂起を合わせること、守るに足る場所へ引き揚げること、そして十五歳の少年をこの企ての頭に据えることで合意しました。

彼は妥協の産物として担がれた候補でした。史料が用いるのはまさにその言葉であり、この物語のなかで最も多くを明かす一語です。

その論理は神秘的なものではなく、組織の論理でした。この一揆は、二つの領、二つの暴政、そして一つの海を隔てて起きた二つの蜂起を、共同で動いた習いもなく、互いの庄屋を信じない理由なら山ほどある村々のあいだで、一つに溶接しなければならなかったのです。歴戦の将ではそれは果たせません。歴戦の将とは、必ずどこかの土地の者であり、主君があり、家筋があり、土地ごとの敵を抱えているからです。事態が求めていたのは、党派もなく、来歴もなく、利害もない人物でした。そしてその者がまもなく現れると、出どころのたどれない予言によって、在郷はすでに告げられていたのです。

こうして彼らは四郎を総大将に、すなわち天草・島原連合勢の最高の将に押し上げ、作戦上の決定をほとんど一つも下さない指揮系統の中心へ据えたのでした。

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原城の一揆勢が掲げた麻布の旗──聖体の御宿と、それを拝む二人の天使、そしてポルトガル語で「LOVVADO SEIA O SACTISSIMO SACRAMENTO(尊まれよ、至聖なる秘跡)」と記されている。旗を描いた教理指導者・山田右衛門作は、後に二度にわたって少年を売り渡そうとした人物でもある
山田右衛門作 筆と伝わる「天草四郎陣中旗」1637年──天草キリシタン館蔵。パブリックドメイン。

鳩と雀と旗

天草四郎の奇跡と、ポルトガル語が記された聖体の旗

奇跡は予定どおりに現れました。しかもそれらは、一つの作品群として、きわめてよくできていました。

彼は野の鳩を空から呼び寄せ、手にとまらせました。鳩はその掌に卵を産み、「瑞相、瑞相」と鳴きました。吉兆、吉兆、というのです。卵を割ってみると、中には巻かれたキリシタンの聖なる書が入っていました。竹の止まり木の雀を睨みつけて動けなくし、竹を揺すっても、折っても、飛び立たせないこともできました。天草と有馬のあいだの海を歩いて渡り、湯島へ着きました。闇のなかでも目が見えました。手を触れて病を癒やしました。Fukaiemura という村では、ある潜伏キリシタンが縁のないデウスの絵を櫃にしまっていたところ、ある晩、その絵に美しい縁が付いているのが見つかり、村人たちは集まってそれを拝んだといいます。

一つひとつの徴は、海を隔てて文字を読めない人々を動かさねばならない運動にとって、それぞれの役目を果たしています。鳩は、読んでくれる司祭のいない共同体において、聖なる書の真正さを保証します。縁の付いた絵は、私人の家を聖堂に変え、集まること自体が罪であった領において、村に集まる口実を与えます。海の上を歩くことは、海峡に分かたれた一揆の二つの半分を結び合わせ、しかもそれを、指導部が両者を一つにするために会した、まさにその地点で行ってみせるのです。

この驚異と並んで、玄人の細工も走っていました。Mogine の浜では、見るからに健やかな少年を目撃したという証言が出ていたにもかかわらず、家の者たちは彼の不在を、ひどい皮膚の病、肥前瘡、すなわち疥癬を患っていると言い触らすことで説明していたのです。役人が自ら患者を検分したいとは思わない程度には、不快な病でした。信徒には奇跡を、役人には皮膚病を。

蜂起の上に翻った旗は、いまも残っています。この一揆が生んだほとんど何ものについても、そうは言えないというのに、です。白い絹地で、一辺は108.6センチ、聖杯と聖体が描かれ、その両脇に礼拝する二人の天使が配され、上端にはポルトガル語の銘が走っています。Louvado seia o Santíssimo Sacramento、いとも尊き秘跡は讃えられよ、という意味です。徳川方の記録は、自分たちの使わない文字体系の、読めない字を書き写した結果、これを「LOVVAD0 SEIA 0 SACTISSIM0 SACRAMENT0」という様式化された形で書き留めました。O の字の代わりに零が並んでいます。図柄は山田右衛門作に帰せられます。もとイエズス会の同宿、すなわち西洋画法を仕込まれた俗人の伝道者であり、のちに城内で八百の兵を率い、そしてまた、自ら旗を描いたその少年を、二度にわたって売り渡そうとする男です。

主題の選択は装飾ではありませんでした。司祭がなく、したがって聖別された聖体もない運動における聖体の旗は、まさに一揆勢が持たないものを掲げ、それでも自分たちはそれを持っているのだと主張しているのです。禁教のもとで、日本のキリシタン信仰は、聖職者なしに俗人にできることへと切り詰められていました。洗礼を授け、教理を説き、祈り、葬ることです。聖杯は、一世代にわたって孤児となっていた共同体による、秘跡の連続性の主張でした。しかも城壁の外の男たちに向けて、敵の言語で記されていたのです。鬨の声も同じ布地から裁たれていました。一揆勢は「ゼス」と「マリア」を叫び、そして「サンティアゴ」を叫びました。イスパニア・ポルトガルの戦の守護聖人です。日本の旗の上では、それは STIAGO となりました。イベリア世界で最も古い鬨の声の一つが、コンポステーラから六千海里離れた地で、飢えた百姓たちによって叫ばれていたのです。

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ジェロニモの法度

原城の内側──1638年の四郎法度書とキリシタンの秩序

およそ三万七千の人々が、岬に建つ廃城、原城へと引き揚げ、その内側に、わずか数週間で、一つのキリシタン社会をまるごと築き直しました。

四郎にかかわるのは、その城壁の内側に築かれたもののほうであり、それは第一義には軍事的なものではありませんでした。

二つの機構が並んで動いていました。一つは、外に陣を張る幕府軍を、まったく意図的に写し取った封建的な軍の階梯です。もう一つは、軍の編成表からは見えず、土地に残る文書によってのみ姿を現す民政の機構でした。五人からなる評定衆、その下に目付、夜番の頭、そして十五の村を代表する三十六人の庄屋がおり、人々を組織し、教え導いていたのです。

守備は村ごとに割り当てられ、家族はまとまって暮らし、まとまって戦い、自分たちの庄屋の指図を受けました。この仕組みは、その場しのぎではありません。コンフラリア、すなわち数十年前にイエズス会士が九州じゅうに植え付けた信徒の兄弟会を、そのまま再現したものでした。司祭たちが追い出されたのちには、この兄弟会こそが日本のキリシタン信仰を支える柱となっていたのです。訓練を受けていない百姓が、大坂以来徳川が集めた最大の軍勢を相手に四か月の籠城に耐えられた理由は、これによって最もよく説明がつきます。

ミサは週に二度あげられました。百マイル四方に、叙階された司祭は一人もいませんでした。

典礼を執り行ったのは、日本人の俗人の指導者、伝道者、そして年長者たちでした。説教は定期的に行われ、そのうち週に二度は四郎自身が説きました。それ以外のとき、彼は本丸の白い石造りの櫓にこもり、城内のほとんど誰の目にも触れませんでした。聖歌は包囲する側の耳に届くほどの声で歌われ、守る者たちは、勝とうが負けようが自分たちは己の神に仕えて戦っているのだと言い放ちました。

1638年3月15日、四郎は一つの掟を発しました。四郎法度書、すなわちジェロニモの法度であり、ラテン語とポルトガル語の語彙が埋め込まれた文書です。それは規律と祈りと、四旬節すなわちクアレズマのあいだの断食とを求め、これを怠る者は天狗の法に委ねられると戒めました。天狗とは、日本のキリシタンがサタンを指して用いた語です。彼が何のための存在であったかを、これほど明瞭に示す史料はほかに残っていません。彼は砲を指揮しませんでした。断食を命じたのです。

そのころには、断食はもはや自発的なものばかりではありませんでした。原城には井戸が一つと池が二つあり、その三つとも、終わりを待たずに涸れました。守る者たちは自分たちの塁の土嚢を解き、中の藁を煮て食べられるようにしました。落城ののち幕府方の武士が死体を検分すると、胃の腑からは浅瀬の海藻、木の葉、熟れていない麦が出てきました。調べられた亡骸のうち、米が入っていたものは一つもありませんでした。

そして、少年に道理を説かせようと包囲側が送り込んだ縁者たちが、休戦の旗のもとで城内に入ってきたときには、柿、薩摩の蜜柑、饅頭、そして土地の柑橘である九年母が、たっぷりと振る舞われました。戻って、一揆勢には食い物があると報告させるためです。

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裂けた左袖

1638年、原城で天草四郎の袖を裂いた砲弾

神の加護の上に権威を置く大将の厄介なところは、その取り決めが反証可能だという点にあります。

二月を通じて三月に入るころまで、籠城は守る側にとってまずまずの運びでした。まだ生きている、という限られた意味においてです。板倉重昌の最初の総攻めは、統制のとれた火縄銃の斉射によって粉砕されました。幕府方の死傷者は六百を超え、一揆方の損失は一人もなし。この比は、城内の二百の浪人について多くを語り、百姓については何一つ語りません。それだけの射撃を可能にした一揆勢の武器の量を、誰も数えたことはありません。板倉は、松平信綱が自分に代わって差し向けられたと知ると、旧暦の元日に再び城壁へ身を投げ、よじ登る途中で撃たれて死にました。四千から五千の兵を道連れにしてのことです。信綱はその実験を繰り返すことを拒み、九州二十五藩からの十二万の武士とともに、兵糧攻めの構えに入りました。彼はまた、軍船も雇いました。平戸オランダ商館が、商館長ニコラス・クーケバッケルのもとで二十門を備えたデ・ライプ号を差し出し、2月24日から3月12日までのあいだに、船と陸上の砲台は合わせて四百二十六発を城に撃ち込みました。粘土と石の塁に対しては、三万七千の人々を穴蔵へ追い込む以外、ほとんど何も達成しませんでした。これが終わったのは、日本の武士は飢えた百姓を相手にするのに異端の者の力を借りねばならぬほど衰えたのか、と問う矢文を一揆勢が包囲線へ射込んだからです。信綱はクーケバッケルに礼を述べ、帰らせました。

ついで1638年3月28日、枝の主日に、鍋島方の砲台が放った六百発目の弾が、四郎がを打っている最中の櫓を撃ち抜きました。弾は周囲の者を幾人も死なせ、彼の左の袖を裂きました。

彼自身に怪我はありませんでした。それは何の意味も持ちませんでした。城内には、四郎はデウスの加護を失ったのだ、という囁きが立ち始めます。海藻で命をつなぐ籠城の民のあいだでひとたびその囁きが立てば、どんな説教もそれを引き下がらせることはできません。誰が最初に口にしたのかを、記録は伝えていません。

4月1日、二通目の矢文が、こんどは逆の向きに飛びました。旗を描いた山田右衛門作は、すでに2月5日に一通を幕府方の陣中へ射込んでいたのです。そこで彼は、百姓の反乱は天の裁きを受けねばならぬと説き、この邪悪な輩を討ち滅ぼす許しを乞い、そして最後の一条で、自分の命だけは助けてほしいと願い出ていました。二通目は、四郎を生け捕りにすると申し出るものでした。夜回りの者がそれを拾いました。

四郎は、右衛門作の妻子を処刑せよと命じました。右衛門作は自分も共に殺してくれと願い出ましたが、代わりに鎖につながれて牢に放り込まれました。これが、少年が下したと記録に残る唯一の実務上の命令であり、そしてそれが裏切り者の命を救ったのです。

復活祭にあたる4月4日の夜、飢えと壊血病に弱った三千の一揆勢が、四郎自ら先頭に立って城壁を越え、鍋島・黒田・寺沢の陣へ討って出ました。彼らは陣幕を焼き、五百ほどの死傷者を与え、そして食糧は何一つ奪えませんでした。それこそが、この夜襲の目的のすべてだったのですが。三百から四百の者が、戻りませんでした。

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1876年、尾上菊五郎(五代目)が天草四郎時貞を演じた姿を描いた歌舞伎の錦絵。その死から一世紀を経て、目撃者による記述の裏付けを一切持たないまま、この十代の一揆の旗頭を鮮烈な芝居の主人公として作り変えていった演劇的伝統の一齣である
豊原国周「天草四郎時貞」(尾上菊五郎)木版画、明治9年[1876年]──国立国会図書館蔵。パブリックドメイン。

これほど痩せてしまったのか

天草四郎はいかに死に、母はいかにその首を見分けたか

天草四郎がどのように死んだかについては、二つの記述があります。両者は同じ話の異説ではなく、別々の文学の様式です。

第一の記述では、幕府の軍勢が櫓に討ち入ったとき、四郎は白い石の祭壇の上に立って祈っており、黒い雲が降りてきて彼を城の外へ運び上げようとします。細川家の武士、長岡帯刀が白羽の矢をその雲に射込んで雲を払い、地に戻された少年は、心の臓を槍で貫かれて死んだ、というのです。

第二の記述では、1638年4月11日の午後、肥前と肥後の武士たちが信綱の予定を出し抜いて二の丸を奪ったのち、燃える櫓の跡を探っていた細川家の家臣が、汚れた白い衣をまとい、立ち上がろうとしている深手の少年を見つけます。彼はその少年を斬り、首を取り、屋根が落ちる寸前に外へ抜け出しました。

その家臣の名は、Sasaemon とも、Sozaemon とも、Nishimura Gohei とも伝えられています。どれが正しいのかを知る者は、ついに現れないでしょう。

終わりの日付もまた、定まってはいません。ある記録は、黒田家の筑前の武士たちが夜明け前に本丸の最も内側の塁を破った4月12日をもって落城とします。別の記録はそれを4月15日まで引き延ばし、人々が石と屋根の梁と鍋釜とで戦った三日間の末のこととします。二つは両立させることができ、前者は破城、後者は組織的抵抗の終わりだと考えればよいのですが、史料自身がその区別を立ててはいません。最後の破れ口での戦いで死んだ者はおよそ一万三千、さらにおよそ二万三千、その圧倒的多数は女と子どもと老人でしたが、生きたまま焼かれ、崖から投げ落とされ、あるいは見つかったその場で殺されました。三万七千の人々のうち、生き延びたと知られているのは一人です。鎖につながれたまま生きて見つかり、彼の書いた文を読んでいた幕府の上使によって赦され、解き放たれた山田右衛門作です。

ここで幕府は、身元確認という問題を抱えることになりました。首はおびただしくあるのに、肝心の一つについての当てになる人相書きがないのです。そこで、捕らえられていた四郎の母マルタが、その戦果の前へ引き出されました。

はじめ彼女は口を割りませんでした。息子は天の者であり、フィリピンへ逃れたのだから殺されるはずがない、と言い張ったのです。やがて細川家の家臣が取った首が彼女の前に掲げられると、彼女は崩れ、その首を両手に取り、泣いて、こう言いました。「これほど痩せてしまったのか。」

山田右衛門作が牢から引き出され、それを確かめさせられました。彼は、そのとおりだと認めました。

首は、四郎の妹マリナと義兄の小左衛門の首とともに長崎へ送られ、三つとも、出島のポルトガル人たちの目の前に晒されました。地理のうえでの偶然ではありませんでした。

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決算

幕府はなぜ島原の乱をキリスト教のせいとし、国を閉ざしたのか

このあと幕府は、めったにしないことをしました。落ち度は自分の家臣たちの側にあったと、公に認めたのです。

竈の税と蓑踊りを考え出した家の当主、松倉勝家は斬首され、その領地は召し上げられました。斬首は罪人の死に方であって、大名の死に方ではありません。寺沢堅高は天草を取り上げられ、のちに恥辱のうちに自ら命を絶ちました。幕府は三万七千人の蜂起を眺め、その原因は悪政であると、正しく結論づけたのです。

そのうえで幕府は、原因はキリスト教であったという理屈にもとづいて、日本の対外政策をまるごと組み替えました。

この二つの結論は、見かけほど矛盾してはいません。信仰に罪を着せるのは、分析としては誤りでしたが、行政としては抗いがたいことでした。財政の問題は大名の奉公の仕組み全体を巻き込むのに対し、宗教の問題は異国人を巻き込むだけで済むからです。1639年、将軍家光は九十七年におよぶポルトガル貿易に終止符を打つことを決めました。8月4日の禁令は三つの理由を挙げています。ポルトガルのガレオタ船が宣教師を日本へ密かに運び入れていること、すでに国内に潜伏する司祭たちに物資を供給していること、そしてマカオから来る船に乗る人と金とが、島原の一揆を煽り立てた直接の責めを負うこと。日本へ近づくポルトガル船はすべて焼き払い、乗組員は死罪に処すべし、と定められました。

破滅に直面したマカオは、1640年に使節を送りました。債権者は返済を望むものだ、というもっともな見込みに立ってのことです。家光は債務を退け、使節の処刑を命じました。1640年8月3日、四人の正使全員を含む六十一人が西坂で斬られました。十三人は知らせを持ち帰らせるために助命され、その前にまず、彼らの船が目の前で焼かれました。

砲を貸したオランダ人も、この理屈を免れませんでした。商館長フランソワ・カロンは、ポルトガル人の上に雨が降れば、会社にもその飛沫がかかるものだと述べましたが、一年のうちにその通りになります。1640年の秋、幕府の巡察使は建て直されたばかりの平戸の商館を取り壊すよう命じ、1641年5月、会社は出島へ押し込められました。常時の監視のもと、以後二世紀にわたり、日本にとって西洋に開かれた唯一の窓としてです。

国内でも、装置は同じ速さで組み上がりました。1640年、井上政重のもとに全国の宗門改が置かれ、寺請の制度が全国的に定められて、日本のすべての家は、キリシタンではないことを仏寺に証明してもらわねばならなくなります。1642年には五人組が連座の責めとともに制度化されました。潜伏するキリシタンを訴え出なければ、組の全員が死罪になるのです。この宗旨を禁ずる高札が取り除かれたのは、1873年のことでした。

島原も天草も、人のいない土地になっていました。幕府はキリシタンが根づいたことのない国々からの強制移住によって、そこに人を入れ直します。1641年には鈴木重成を送り、天草を直轄で治めさせました。重成は、天草の石高は一揆を招いたのだからと、その引き下げを繰り返し願い出ました。願いは退けられ、1653年、彼は切腹しました。土地では彼は英雄として記憶されています。官僚機構が、手の届くところにあるただ一つの教訓を学ぶことを拒むと、そういうことが起こるのです。

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鉄砲玉から作られた十字架

原城の一揆勢はなぜ敵の鉄砲玉で十字架を作ったのか

信仰は原城で終わりませんでした。地下に潜り、そこに二百二十七年ものあいだとどまったのです。

遠い海辺や離れ島の共同体は、それを記憶によって保ちました。書かれたものは何であれ証拠になってしまうからです。ラテン語の祈りは、言葉の意味を知らない世代から世代へと口伝えに受け渡され、音だけを写した日本語の唱えへと崩れていきました。主の祈りは「パーテル・ノステル」から「パティリ・ノティリ」として生き延びました。1865年3月17日、浦上の一団が長崎でフランス人司祭ベルナール・プティジャンに歩み寄り、自分たちが何者であるかを告げたとき、彼らは原城以来ひそみ続けてきた人々の子孫だったのです。

原城の発掘は1992年に始まりました。本丸の調査は、冬の砲撃のあいだ家族が身を寄せていた規格化された竪穴住居の跡を掘り当て、その下から、考古学者たちが骨の絨毯と呼んだものを見つけ出しました。

十字架も出てきました。小さく、手作りで、城内の一揆方の鍛冶が鉛から作ったものであり、その鉛は、幕府軍が彼らに向けて撃ち込んでいた鉄砲玉から来ていました。守る者たちは玉を拾い集め、溶かし、それで十字架を作っていたのです。発掘の手は、その十字架を頭骨のかたわらから、また顎の骨の内側に噛みしめられた状態で見つけました。原城にいた幾人もの人々が、最後の時に、それを口に含んだということです。そのそばには、ロヨラのイグナチオとフランシスコ・ザビエルを福者として描いた舶来の信心具のメダイが横たわっていました。その称号から1619年から1621年のあいだのものと年代を定められる品であり、つまりそれらは、四郎が生まれたのとほとんど同じ時に日本へ入り、それを握ったまま死んだ人々の手で十七年ものあいだ隠されてきたのです。

この遺跡は2018年、ユネスコの世界遺産一覧表に登録されました。

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美少年

天草四郎はいかにして十八世紀の物語で美少年となったか

人々の想像のなかに生き残っている姿は、細身で中性的な、この世のものとも思われぬ美しさを備え、静かで、かすかに悲しげな少年です。白い衣、あるいは銀と赤の陣羽織をまとっています。そしてそれは、十八世紀の文学の発明品なのです。

その名誉回復には、およそ百十年がかかりました。1666年、四郎は人形芝居のなかで、悪役として最初の大衆的な再登場を果たします。1719年には近松門左衛門が彼を人形浄瑠璃に書き入れましたが、そこからはキリシタンの要素が抜き取られ、世俗の反逆者だけが残されました。宗旨はなお禁じられており、検閲もなお働いていたからです。ついで1748年から1750年にかけて、Tamamaru Tomofusa Monogatari が決定的な仕事をします。四郎を源義経に重ね合わせたのです。悲劇的で、繊細で、滅びの定めを負ったあの若き将は、日本における英雄的敗北の原型そのものでした。この融合から生まれたのが美少年です。以後のあらゆる像は、この書物の子孫です。彼を実際に見た誰かの子孫であるものは、一つもありません。

そのあと、この姿は、時代の文化が必要とするところならどこへでも行きました。1939年、横溝正史は彼を、徳川に復讐する吸血鬼としてよみがえらせました。1962年には大島渚が彼を映画に撮りました。1967年、山田風太郎は彼に原城の城壁の上で神を棄てさせ、死んだ剣士たちを甦らせる魔道の者として舞い戻らせました。1981年に深作欣二がこの小説を映画にしたとき、ロック歌手の沢田研二を銀と赤の装いに、青いアイシャドウと黒い口紅で起用し、現代的な美意識をそこに固定しました。1993年には格闘ゲームが彼を最後の敵役に据え、2000年には、芸能者の美輪明宏が全国放送のテレビで、自分は四郎の生まれ変わりであると告げました。

あの顔のいかなる細部一つとして、十七世紀から来たものはありません。

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妥協の候補

五人の牢人はなぜ天草四郎を旗頭に選んだか

この一揆とは何であったのかをめぐる議論は、三百年にわたって続き、三つの答えを生んできました。第一に、キリシタンの衣をまとった年貢一揆であった、という答えです。戦後の日本の歴史家たちと西洋の研究の多くが取る読み方であり、その証拠は石高の偽り、六割の年貢率、戸や出生への課税、そして人を煮たことです。第二に、宗教戦争であった、という答えです。これはより古い伝統の読み方であり、その証拠は寺社の破壊、白い旗、サンティアゴの鬨の声、そして十年にわたって公然とキリストの像を踏んできた数万の人々による、立ち返りキリシタンと呼ばれる信仰への正式な復帰です。そして第三に、その両方であった、という答えです。これが現代の総合であり、証拠が支える読み方でもあります。不満の源は年貢にあり、百姓はそれだけでは動けないほどばらばらであり、九州において十五の村を意味あるだけの期間まとめておける組織は、コンフラリアの網の目だけだったのです。信仰が経済に取って代わったのではありません。信仰は組織と正統性とを供給したのです。

天草四郎は、まさにその交点に座っています。だからこそ、彼の姿は見定めにくいのです。彼は実在した少年でした。1621年ごろ、史料が一致しない土地に生まれ、その父は小西の家臣であったかもしれず、Shinbei という百姓であったかもしれません。長崎でイエズス会士に学び、ポルトガル語を書けるほどの教育を受け、象徴を必要とし、在郷がどんな象徴を待っているかを心得ていた五人の男によって、十五か十六か十七の歳に選び出されました。彼は週に二度説教しました。四旬節の断食を命じました。裏切り者の家族を殺すよう命じました。一度の夜襲を率いました。そして、名が三通りに記録されている男によって、燃える櫓のなかで討たれ、母は、その顔がどれほど痩せてしまったかによって、彼の首を彼の首だと見分けたのです。

そのほかのすべて、鳩と卵、竹にとまった雀、海峡を歩いて渡ったこと、美しさ、静けさ、銀の鎧は、あとから彼の上に置かれたものです。一部は彼を作り上げた男たちによって、予言が成就するさまを人に見せねばならなかった数か月のあいだに。残りは三世紀ぶんの人々によって、すなわち、日本人の殉教者でありながら同時に日本人の反逆者でもある存在を必要とし、記録に残る顔を持たない十代の少年こそ、その上に描くのに理想的な画面であることを見いだした人々によってです。

史料は、彼が何歳だったのかを言うことができません。どこで生まれたのか、父が誰であったのか、どのような姿をしていたのか、誰が彼を殺したのかも、言うことができません。言えるのは、城が落ちたその日、その内側には彼の言葉を信じてそこへ来た三万七千の人々がいたということ、彼らが四か月にわたって海藻と煮た藁を食べていたということ、そしてその足もとの土のなかから、三世紀半ののちに、考古学者たちが敵の鉄砲玉を打ち延ばして作った十字架を、死者の歯にくわえられたままの姿で見つけ出したということです。

参考文献

ボクサー, C. R. The Christian Century in Japan, 1549-1650. University of California Press, 1951年。布教についての英語による標準的な記述であり、同時代のヨーロッパの書簡にもとづく、蜂起の時点で四郎は十八歳であったという古い推定の出どころ。

ボクサー, C. R. The Great Ship from Amacon: Annals of Macao and the Old Japan Trade, 1555-1640. Centro de Estudos Históricos Ultramarinos, 1959年。一揆ののちに訪れた交易の崩壊、レスポンデンシアの債務、そして1640年のマカオ使節が西坂でたどった運命を伝える。

クレメンツ, ジョナサン. Christ's Samurai: The True Story of the Shimabara Rebellion. Robinson, 2016年。蜂起についての現代英語で最も充実した物語であり、本稿では矢文のやりとりの順序、山田右衛門作の裏切り、そして原城内の暮らしぶりについて用いた。

クーパー, マイケル. The Southern Barbarians: The First Europeans in Japan. Kodansha International, 1971年。四郎の年齢を十七歳とする系統を代表する書であり、のちに幕府が一揆の責めを負わせることになる、九州におけるポルトガル人の存在を位置づける。

エリソン, ジョージ. Deus Destroyed: The Image of Christianity in Early Modern Japan. Harvard University Press, 1973年。徳川期の排耶書を読むうえで欠かせない一冊であり、四郎の奇跡を妖術に作り替えた通俗本の系譜を含め、そうした文書を政策の道具として読む方法を示す。

フジタ, ニール・S. Japan's Encounter with Christianity: The Catholic Mission in Pre-Modern Japan. Paulist Press, 1991年。一揆の原因を宗教に求める読み方を最も明快に述べた書であり、四郎は十六歳であったとする推定の出どころ。

ガン, ジェフリー・C. World Trade Systems of the East and West: Nagasaki and the Asian Bullion Trade Networks. Brill, 2018年。1630年代の九州における財政と交易の圧力のなかに蜂起を位置づけ、社会経済的な原因論を主張する。

ヘッセリンク, ライニール・H. The Dream of Christian Nagasaki: Municipal Government and the Fate of a Missionary Enterprise, 1560-1640. McFarland, 2016年。四郎が学んだ長崎の背景と、その地でキリシタンの子ども時代を潜伏のものに変えた、登録と密告の装置を描く。

モリス, アイヴァン. The Nobility of Failure: Tragic Heroes in the History of Japan. Holt, Rinehart and Winston, 1975年。滅びゆく若き英雄という日本の伝統のなかの一人として四郎を論じた古典的な記述であり、彼を源義経へと同化させていった文学の仕掛けを明らかにする。

パーカー, ジェフリー. Global Crisis: War, Climate Change and Catastrophe in the Seventeenth Century. Yale University Press, 2013年。1634年以降の凶作と1637年の異常な冬を、ユーラシア各地に反乱を生んだ十七世紀のより大きな気候の危機のなかに置く。

ロス, アンドルー・C. A Vision Betrayed: The Jesuits in Japan and China, 1542-1742. Orbis Books, 1994年。一揆の背後にある布教史の骨格をなす書であり、聖職者の追放を生き延び、原城の守備を組織した信徒のコンフラリアの組織を含む。

ターンブル, スティーヴン. The Kakure Kirishitan of Japan: A Study of Their Development, Beliefs and Rituals to the Present Day. Japan Library, 1998年。島原の乱の余波から1865年の信徒発見を経て、カトリックとかくれキリシタンの現代における分裂に至るまで、潜伏の共同体をたどる。